Letter from Samarinda

日本の目から見ると、ノイズは今や日本ではなく世界中に広がっている。特に、インドネシアのノイズはよく知られていよう。特にセンヤワ(ドゥームとトライバル)と、ハーシュノイズのコレクティブのジョグジャ・ノイズ・ボミングである。今やジョグジャカルタを中心としてインドネシアはアジアにおけるノイズのメッカであると言ってもよく、日本のノイズすらマランのレーベルから出ている。そして今そこに、新たな波がつけ加わろうとしている。ボルネオのサマリンダからであり、このミックスはそうした新しい波を示している。


コンパイルしたのは、私の友人であるテオ・ナーグラーだ。すでに100以上のリリースを誇り、レーベル、ハーシュノイズムーブメントを含むレーベルから音源を出す一方で、シューゲイズやポストロックに沿ったミックスもしているし、またフィールドレコーディングや、展示でもサウンドアートを行っている。パフォーマンスでは過激で、植物を基材と接続したサイバネティックな趣から、無骨極まりないハーシュノイズ ーハーシュノイズウォールー の波を作り出すところを見ることができる。その身と骨を削り取るようなノイズの連続は、変容しつつある今の世界のノイズの最前線にいると言えるだろう。それだけでも注目に値する。


だが、彼は孤独ではない。すでにサマリンダには一つのシーンがあり、実験的で規範の先へ先へと進もうとする人たちがすでに十分に鍛錬を終えて待っている。彼らは、それぞれの実験の中で、従来の欧米のプレイヤーたちが目移りばかりする機材ではなくーかつて大友良英は、ジョグジャのシーンについて、その機材が日本のそれといちじるしく異なっており、しかしそれゆえの魅力にとりつかれて自身で演奏の訓練したことを告白したことがあるーパンクトハードコアと都市の喧騒と自然の中で、私たちは聞いたことのないサウンドと歌の融合を耳にする。例えばジェリタンはハードコアのボイスから圧倒的なノイズの持続に耐えることができる稀有な才能だ。サラーナは、美術作家たちによるノイズプロジェクトで断片が融合し、また断片化していくさまを描き出す。サブリナは強烈なジャンクサウンドに歌を注入するだろう。空気を引き裂き続ける振動の中で、彼らは歌を見出す。
少しだけ寄り道を許してほしい。ノイズと歌は、日本では果たそうとして果たせなかった出会いである。ノイズは、本質的に音楽から音を引き剥がし、振動だけ、波だけを取り出して圧縮したものだった。それは先日亡くなった小杉武久やジョンケージから姿を現し、そしてジャパノイズを経て90年代には音響という振動だけの演奏群に到達する。そこにおいて、音楽は沈黙し、静寂に至った。彼らは、もしかして歌を求めていた彼らは、また歌を求めてさまようだろう。批評家の大谷能生は「もう一度再び歌うために、僕らは音の底へと降りてい」ったのだという。そう、だから、ノイズと歌は、本質的に相反するものであり、彼らは歌を求めながら物質の中へと消えていった。
私たちは、あるいは私は、再びその出会いを、ここに見出すだろう。ジャパノイズを経て、ジョグジャからソマリンダへと到達したノイズの広がりは、彼らの元で歌を取り戻すのだ。そのあり方は、一様ではない。実際、そこではハードコアな絶叫がノイズに、ノイズがメロディに入れかわり、時にノイズがメロディを押しつぶし、その中で彼らは歌うだろう。
今や千々に乱れたその出会いを、私たちは聞かなければならない。祝福しよう。


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