光と音のあいだで

1月30日
テオ・ヌーグラーからメッセージがくる。短く「helloo」。前から関心を持っていたノイジシャンで、インドネシア在住らしい。関心の中身は音源で、とにかくゴリゴリしたハーシュノイズ。ハーシュノイズの中に振動するような低音がある。以前に聴いていた大友良英マルタン・テトロでの硬質なノイズを思わせる音で、もう少し凶悪な、物体を投げつけているような物音というべきだろうか。
言うまでもなく今やインドネシアはノイズミュージックのメッカだ。ジョグジャノイズボミングをはじめとして、主にメタルを背景に、だがよりラディカルかつ自由に追求した結果ノイズにたどり着いたらしい彼らは、幾つかのドキュメンタリーや最近では海外に招聘されてもいる。日本にも、アジアン・ミュージック・フェスティバルで何人かが来日している。
というわけで、その中の一人としてとりあえずfbで知り合いになり、とはいえ何も交流のないまま互いの投稿を見ている感じだった。最近では、どうやら機材に植物を用いているらしく、より凶暴でかつ無作為なノイズが惹かれるところだった。


そのテオからメッセージ。何かと思うと、「スプリットを出さないか」という。幾つか、同じコンピレーションにトラックを寄せていた縁もあるのだろうか、なかなか興味ふかい連絡だと思った。と同時に、即座にコラボにしてみようというアイデアも。コラボと言っても、ノイズの場合はお互いのクセが強いし、どこまで自分を主張し(あるいは譲る)かも事前にはわからない。ということで、互いにリミックスし合うというのがいいだろう。そう思いつくまでに10分とかからなかった。


早速その旨を送ると、5分も経たずに「lets gooo」と返事が来る。別に公表しなくても、まず交換するだけでもいいけど、というと、自分のバンドキャンプにアップしようという。
これで話が決まり、互いのアドレスを交換して、1週間後には新トラックを送ると伝えた。



2月2日
新トラックが出来たので、テオに送ることにする。最近試みている、即興演奏の録音をサンプルに激しくコラージュとレイヤーを施して別物にする試みの一つだ。
ノイズと即興の関係は、難しくも面白い。ノイズの発祥を、イントナルモーリやケージではなくノイズ・ミュージックに求めるならば、そこではすでに即興を方法として取り込もうとしているのが伺える。特に80年代ジャパノイズの非常階段などでは、即興であることが前提であり、激しいフィードバックやエフェクターを使ったノイズが不定形のまま爆音集団即興として繰り広げられている。
裏を返せばこれは即興演奏がすでにスタイルとして固定化し(ここからポストモダンが出てくるだろう)たなかで、むしろその硬直化を打破する意図があらかじめ装填されていたとも思われる。ここからフリージャズでは高柳の晩年の試みなどとも接続されるだろうが、さしあたっては、こうした即興演奏/フリー・インプロヴィゼーションからの発展としてのノイズ、を考えておけばいいだろう。


そうしたなかで、インプロコラージュによるノイズは、なかなか楽しい。作業は全てPCで行い、編集ソフトを使って、ただし音を整えるのではない真逆の方向で加工を試みる。今年に入ってから取り組み始めたが、すでに6曲以上製作していて、これまで試みてきた環境音によるノイズトラックとは違う、ある意味で正攻法の、ある意味で迂回した逆流の試みとも言えるだろう。サンプルは演奏からフリーの音響サンプルも使っていて、もうだいぶサンプルの原型はほぼわからないところまで来ているはずだ。積極的に新しいことをしようという意気込みは必ずしもないが、多くが自我を主張する音楽ばかりに囲まれている中で、むしろ無作為な音塊には積極的な意味を感じるし、音声データを加工して出現するコラージュにはそれ自体と魅力を感じる。
そういえばノイズミュージックの流れの中に、シェフェールから始まるミュージックコンクレート/具体音コラージュがあることも忘れてはならない。どちらかといえば、そちらの軸の中で、何か面白ことができないかと模索したいというところ。


タイトルに「10n乗次元からの歌」とつけたノイズを送る。



2月4日
テオからトラックが送られてくる。フィールドレコーディングだった。どこかのギャラリーか、あるいは公共施設のような空間の録音で、特に何も起きない。



2月5日
リミックスを開始する。フィールドレコーディングがノイズか、という問いが立ちはだかる。具体音の流れからすればノイズだし、一般に環境音ノイズというものはノイズだ。ではそのままでいいだろうか。
環境音の使用は、ここ数年で一気に盛んになりつつある。特に大きいのは録音機材の性能の向上というか、誰でも高品質の録音ができるようになったことが大きいかもしれないが、早いところでは90年代末あたりから、何時間もの環境録音に電子音を合わせた作曲作品が出始めており、今では楽譜指定での録音や、高品質マイクでの野外インスタレーションの録音も出てきている。
いうまでもなくここでの環境音とは加工されうるものであり、かつてはマイクを向ければそこに自然の時間が切り取られうると主張されたとしても、今はそれほどナイーブではない。録音された音は、ある時間の切断面であるとともに、極めて主体的にマイクで拡張された世界であり、またそれはキャンバスの上の絵のように音響空間上に保存されている音の風景でもある。


角田さんのフィールドレコーディングを思い出す。特殊なマイクを使って、海や海に渡されたロープなどから振動音を取り出す、音響の探求だ。それだけでなく、片方のチャンネルにサイン波を入れたり、同じ場所で違う時間に録音したトラックを左右にそれぞれ配置した実験的な作品もある。いずれも鑑賞者の感覚自体に訴えかけ揺すぶってくるようなハードなものばかり。音も重低音で、可聴域外の低域によるスピーカー破損の危機があるとさえ言われている。


それらを思い出し、録音のチャンネルを左右にバラして、それぞれ加工することにした。さらに、どうせなら物語を導入してみる。ある録音されたフィールドに、次第にノイズが侵入してきて、ついにはサウンド自体が絶叫していく、というようなイメージだった。侵入するのは、もちろんレコーディングが支えられているキャンバスとしての音響空間で、フィールドレコーディングの外部がやってくると捉えてもいい。サウンド自体が絶叫している、というのは意味が不明かもしれないが、空間内の音そのものに絶叫の成分が混じっている、というイメージだろうか。どこにも主体は見えないが、ある空間の内部全体が叫んでいる。グラインドコアノイズと呼ばれる激しい電子ノイズと絶叫交じりの音楽に聞かれる、ほぼ叫び声だけが人間から切り離されてノイズ中に充満しているようなサウンドだ。

この設計図に従って、トラックにレイヤーとコラージュをした。まず右チャンネルからノイズが侵入し、幾度かの停止を経て、その姿を現わす、というものにする。録音された音の空間のフィクション性を横切っていく、この声は、このトラックの再生される内部にしか存在しない、音響空間内の身体と言ってもいいし、奇妙にフィクショナルで人工的な、意味を欠いた叫び声として現れるはずだ、そうなるように願いながら作成していった。



2月9日
テオからメッセージで、アルバムジャケットについての相談が来る。自身はメディアやテレビに関心があるらしい。実際、ある種の手紙のやり取りで成立するメールアートや、サウンドアートでの音源提供もしているらしい。
彼の音源にある、どこか時間軸を前提としないハードなハーシュノイズのあり方はそうしたところから来ているのかと納得する。即興かノイズかといった二分法ではない、時間軸を意識しつつ無視するような、空間や展示といった中での音のあり方も考えるところまで、すでに来ている。


何かイメージはないかというので、よく知ったビデオアートの作品の映像を指摘する。即興とノイズを通過して、サウンドアート上での快楽と美学をさまようようだ。



2月21日
テオからリンクが送られてくる。アルバムが出たらしい。今はフランスのナントにいるはずだ。
地球の裏側に近い場所から光の速さで送られてくるデータを開き、そこにあるノイズに耳をすませる。




関連リンク
テオ・ヌーグラーと追湾及  
https://theonugraha.bandcamp.com/album/-