ハーシュ・ノイズ・ウォールから


ハーシュ・ノイズ・ウォールという音楽がある。ある時期からノイズ・ミュージックのコミュニティでは有名で、fbにはすでに同名のグループもできていて、日夜、新作が更新されている音楽だ。


内容は、ハーシュ・ノイズが文字通り壁のように塗りたくられ、連続するもの、と言っていい。そのままである。中にはそのノイズ・ウォールの内部に、別の持続音が仕込んであり、ハーシュノイズの変化によってあらわになるものもある。またいずれも10分から20分以上の長尺のものが多く、ひたすらにハーシュノイズを満喫するには最適であるだろう(なおここでのハーシュノイズというのは、バキーンとかズバババとか表現されうる、電子的な雑音を広くイメージしてもらえれば間違いはないだろう)。
このハーシュノイズウォールは、Vomirというアーティストが始めたとされている。実際に「Harsh Noise Wall」というタイトルの曲を作成しており、その後も数え切れない膨大な数のノイズウォールのリリースを誇る。すでに述べたようにその音楽はすでに多くの影響を与え始めており、各国あるいは全世界で同様の作品が作られている。



少し視点を変えてみよう。この音楽に接したのは、外套というユニットとして活動をし始めた去年の春頃からだ。海外のノイジシャンと連絡を取り、彼らの作品を聴いていくうちに、名称が付いているのに限らず、ノイズウォール型の作品が複数あることに気づいた。その送り手は、英国、米国だけでなく欧州全体、さらにインドネシアを含めアジア全域に広がっている。


しかし、とはいえ、それらについての評価判断は、まちまちである。実際、ひたすらにハーシュノイズが続けられていくばかりのトラックは、率直に言って冒頭の十数秒聞けば、ほぼ内容が分かってしまうものがあったし、また日々更新されていくノイズシーンのトラックを追うのに、そうした構造を分かった上で20分以上聞き続けるのはいささか困難であったというところもある。また、とくにジャパノイズを聞いてきた側としては、ほとんどメリハリがなく、音色の工夫もないままに続くだけのトラックには(あえて言えばほとんどホワイトノイズを垂れ流しているだけのように聞こえるものも、かなり多いと思われる)、やや否定的な判断をせざるをえないというのが正直なところだろう。



にもかかわらず、改めてこうして書いているのは、自分で試作を試みた故である。実際にノイズウォールを作ってみると、どうなるか。
結果は、実作としてははかばかしく行かなかった(そもそもハーシュノイズを制作していないというのも一因だろう)が、発見もあった。とりあえず2つ挙げておく。
一つには、もし仮に、手を抜かずに10分から20分、みっしりとノイズウォールを作ってみるならば、まずそれは、おそらく多くの人(ノイズに関心のない人)が想像する「ノイズミュージック」になるだろうということだ。
実際、冒頭から遠慮のない爆音と周波数で最後までクライマックスを待たずして投射されるノイズのあり方は、繰り返しだが多くの人が想像する「ノイズ」であろう。また、今描写に用いたように、その形態はある意味でフリージャズの「集団投射」に近く、全力でノイズを出し続けるというものでもある。実際に流通しているハーシュノイズウォールがそのような音楽であるかどうかはさておいて、仮に模倣すれば、そのような作品になるだろうことが予想された。


もう一つは、別の観点から見れば、それはつまり「ノイズ」から「即興」の要素を抜くことである。やや意外からもしれないが、現在のノイズ・ミュージックにおいて即興の要素は極めて大きいものであり、整ったリズムをとることのない不定形でランダムな音の発信や、終わりが予想できない展開といった点は、ほぼすべて、自覚的に「即興演奏」のイデアを取り込んだことによっている。それゆえに、名高いノイズミュージックの多くは信じがたいほどの爆音と広域の周波数のみでなく、混雑し混乱した流動的な様相においても他の追随を許さない過激さを誇っている。
そのノイズ・ミュージックから、「即興」を抜く。あとに残るのは、先にも書いたようにみっしりと詰まったノイズだ。そのノイズが20分近くもかけて聴取者を打ち抜き続けていく。とすれば、その形は、それなりに面白いもののように思えた。




この、即興を抜く、ということが、どういうことを意味するのか、未だにはっきりとはわかっていない。仮に理論的に推測すれば、それはノイズミュージックから「主体性」を抜くということだろうし(少なくとも演奏時の演奏者の主体性はこれまでに比べてあまり必要とされないだろう)、また展開よりも構成に、演奏よりも事前の作曲(音色を作るところまで含めてここでは作曲としよう)に、力点が置かれることになるだろう。また、そうした形態が、仮にノイズに普段は興味のない一般の聴取者にとって、想像しやすい「ノイズ・ミュージック」であるならば、むしろますます世界中でファンや作り手が出てくるに違いない。(付け加えれば、ここでわざわざ「即興」を抜く、ということを書いているのは、即興演奏の盛衰について、もしかしたらヒントがあるかもしれないと念頭に置いているからである。けれど、それがどういうことなのかはまだわかっていない)



とりあえず、こうした問題がどのような意味をなすのかは、まだわかってはいない。個人的には、むしろこれまで散発的に続けてきた、フィールドレコーディングを使ったノイズトラックの作成に、ある種のヒントを得たということぐらいだ。
実際、フィールドレコーディングに即興はない。レコーディング自体が自然の即興の産物であり、それに対してできるのは事後的なコラージュか加工かしかない。主体性など必要もない。ただそこにノイズがあれば、それでいい。と思いながらも、こちらの方法もまだ試行錯誤で、その途上でのヒントとして得たのがこれだった。



(なおVomirは今年の4月下旬に来日し、日本のノイジシャンとの共演も予定されている)