作用と持続22

いまも、ひとりで、部屋の中にいる。他には、誰もいない。


いまもここに来る前に、ド×ールに寄って来た。すこし人は少なめ。いつものような、いくつかの会話が、耳に入って来たり、入ってこなかったりする。入ってきても、その会話が意味をなすかどうかは分からない。どこにでもある、チェーン店の光景。


どこにでもある。けれど、実はそうではないことも知っている。見た目はどこもおなじ。商品もどこもおなじ。だけど、その店それぞれで、そこにいる人たちが違うと、そこには別の会話が生まれてくることを知っている。いつもの会話は、しかしそこにしかない「いつも」の会話だ。

はたして、そこは安全なのだろうか。答えはまだ出ていない。



そんなことはさておき、すこしだけ昨日のつづき。どうでもいいが、誰に読まれているのか分からないので、自分の発言の影響力も読まれ方も、何もかも分からない。たとえば、僕が15日の企画時に、トーキョーにいると書いてみたとして、それが何ほどのことを意味するのか、自分では分からない。あたりまえだが、だからといって、誰かにトーキョーにいてほしいというわけではない。そんなことを強要する気はまったくない。好きにしてくれとしか思えない。


にもかかわらず、これについて、もう少し書いてみる。それは、どちらかというと、プロジェクトについての個人的な理解だ。いったい、なぜ、15日に人を集めてやるのか、それが何をしたいのか、どういうものなのか。それについて、必ずしも全てが明確に理解されたわけではない。人によっては、だからなんとなくという形でしかわからないし、だからこそ行ってみると言うこともあり得ると思う。それは、それでいい。そういうことに反対しない。
そうではなくて、あくまでも個人的な理解だ。ある程度は理解をしてみないと、何をするにも受け取るにも難しいと言うことはあるだろう。だから、それについての理解である。



で、あくまで個人的な理解でいうと、たぶんなのだが、15日の企画は、つまりお祭りだと思っている。音楽というより、お祭り。それは、前に少しだけ書いた関係性の、人と人との関係性にかかわるものだと捉えている。
そしてそれは、たぶんなのだが、たぶん戦争状態に対するたたかいではないかと思う。戦争「における」ではない。戦争状態そのもの「に対する」たたかい。
だからこれは、戦争状態に対する、関係性を焦点とした、たたかいとしてのお祭りではないか。フェスティバルというのだから、とりあえずそう捉えてみる。



すこしだけ細かく。まず後ろからいくと、ここでいう戦争というのは、たぶんなのだが、ざっくりと生死の問題をあつかう巨大なシステムのようなものだと考えてみる。それは、かならずしも前線で兵士がぶつかるだけではない。なんらかのセイブツ的カガク的ブツリ的な手段によって、一定数の生死が強制的に変化させられるような状態を想定してみる。それは、とりあえず戦争といって問題ないだろう。


だから、おそらくその中心は、いま戦争なのだという理解を受け入れることにする。そこではいま、ホーシャノーによる生死の問題を左右するカガクギジュツによるシステムが展開しているし、たぶん、まだそれは終わっていない。というか始まったばかりなのかもしれない。その理解を受け入れてみる。


すると、たぶんそこでは、すべてが死んだとみなされるようなシステムが存在している。もう社会は死んだ。ケイザイも産業も、すべて死んだと。メディアはほとんどそう報じているようにしか見えない。
その街では、人が歩いているようには見えない。どこかに人がいるようには見えない。それが、たぶん戦争のシステムなのではないか。



そのうえで、15日以降のプロジェクトについて、公的にはそれを戦争だと言っているように見える。けれど、個人的にはそうは受け止めない。そうではなくて、それはひょっとすると、いま書いたような戦争状態そのものに対する抵抗なのではないか。あるいは、持続的なたたかいなのではないか。
いいかえれば、そこで行われることは、必ずしも戦争のシステムに沿う必要はない。あるいは、そのシステムが命じる方向に従う必要はない。そうではなくて、そのシステムとは違うベクトルに線をひく。
それは、戦争をたたかうのではなくて、戦争そのものにたいする、あらがいや抵抗やたたかいなのではないか。


だから、そこでは教育や、学校や、さまざまなプロジェクトがあっても、何も変ではない。そこに展開しているシステムとはちがうベクトルをいくつもつくり出していこうとしている。そのようにみえる。
そして、もしそのシステムがもたらした社会的な影響のひとつが、人と人が出会うことや集まることだとしたら、それに対する別の形態が、フェスティバルだとしても、個人的にはそれほどおかしくないように思う。
もし、そこでは街を歩くことができず、外で遊ぶことができず、自由に集まることができず、いつもの会話をすることさえ困難なのだとしたら。
あるいはそうした状況が、外部から見たとき、社会の死のように見えたとしたら。つどいや、会話や、あそびがない場所は、死んでいる場所として見られるとしたら。
それに対して、もしその場所が生きているのなら、たまには人が集まっても良いだろうと。それもできる限り大勢で。しかも外からも分かる形で。あるいは、外と内とで、双方からやってもいい。
それはある社会をコントロールし、とじこめ、戦争状態を展開するシステムに対する、そのシステムそのものへの抵抗なのではないか。だから、そこにはフェスティバルがあっていいし、そしてだからセカイ中で同時多発的におこなわれていい。
それは、社会を殺そうとするシステムに対する、生きている社会からの何かではないか。そう理解してみる。




・・・いささか抽象的だろうか。まあ、そんなことは、さしあたりどうでもいい。とりあえず個人的にはそういう感じの理解をしてみた。これは、ケイザイともセイジとも違う、ブンカでできる何かなのだろうと。大雑把にいうと、そういうかんじ。

じゃあ、なんだか大げさなのだが、何か大げさなことをしなければいけないような気にもなるが、けれどよく考えると、そういうことは、しなくて良いような気もする。それはもう本体があるし、各地でちょこっとずつであっても確実に進んでいる。
たぶん、これはこれで、大丈夫だろう。



・・・で、実はこのへんから個人的にはフキンシンというかナゲヤリな気分に転化する・・・どうなのだろうか。
つまり、あとは参加するだけかというと、まあそれだけじゃ、なんだかもったいないような気がしなくもない。せっかく、社会について考える機会があり、お祭り気分もついてくるのだ。しかも、一応の目標として、いたるところに関係性のネットワークを張り巡らすというミッションまでついてくる。
というか、とりあえずフェスティバルという気分だったら、あとは何でも良いんじゃないか。飲み会でも何でも。
あとはアイデア次第じゃないか。つまりはそんな気分になったりしないか。





そんなかんじで、今日もひとりで部屋の中にいる。名前をしらないが、あなたは、どこにいるのか。たまには、そういうことを聞いてみたいが、いいのだろうか。
もちろんここが安全かどうかは、よくわからないままなのだが。



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