作用と持続26

どうでもいいが、けっこう長く続けてきたこのシリーズも、まもなく終わりである。4月末のゲーダイから始まって、最初から8月15日に向かって続けてきた。
正直、ここまで続けるとは思っていなかったが、続けてみると、やたらと沢山のことについて書いた一方で、全然なにも片付いていないような気がする。だからといって、どうしたわけではないのだが。


ちなみに、15日の行動については、現時点ではヒミツ。とりあえず文章をつくるが、それはここではなくて、別に新しくつくった場所で(さっきつくった)やる。基本的には、午前0時から文章をつくりはじめて、16日の午後までつづける。たぶん実体としては、都内をウロウロする予定。いくつかの、人の集まる場所を横断していく。
あと、その後は、とりあえず少しここでの行動はお休みする予定。とにかく沢山かきすぎたということもあるし。次にどうするかは、そのとき考える。


しかし、そんなことは、いまのところはどうでもいい。これは回想ではない。どちらかと言えば気になるのは、この文章がタイトルの通り「作用と持続」でありえたか、つまり雑にいいかえるところの「運動」たりえたかどうかで、それは何かの運動を起こすのではなく、この文章自体がそうありえたかどうかという問題なのだが、それについてはこれを読んでいるあなたに判断をゆだねよう。
いずれにしても、これは回想ではない。



実際、これは回想ではない。というよりも、あれから、一体なにが変わったと言うのか。地震から5か月が過ぎ、正確にはすでに21週がすぎて、今日はここで文章を頻繁につくりはじめてから正確に22週目にはいる。だが、あれからいったい、何が変わったのか。
いまだに、ゲンパツの内部はみえていない。いまだに、セーフは何もかわっていない。いまだに、フッコウ庁すら機能していない。
あえていえば、変わったこととしては、現在のニホンがおそらく海外から見れば「ちょっとした地獄」としての様相をおびているくらいだろうか。もはや、どこに逃げても流通した食品をつうじてヒバクしてしまう。それはいまやフkushiマにとどまるものではない。かといって、アビキョーカンの地獄というわけでもない。
たぶんそれは、ちょっとした地獄。ゆるやかな生死の裁きのシステムが進行中。
いま、まだそこにいる。



ひとつだけ、きわめて個人的な感想をつけくわえると、この5か月であれこれ多少かんがえるなかで、結局のところ、どうやら現時点で信頼できる発言をしているとおもわれるのは「女子」ではないかと、ふと思う。女性というより、女子。
固有名詞をならべてもしょうがないので止めておくが、もうすでにこれまで挙げてしまった人の多数が、いわゆる男性性や、それにつきまとう権威やオッサン臭さからまるで無縁なかたちの表現を続けていた(もしくは続けている)ように思われた。それはたとえば、すぐにちょっとした顔見知りを貶すことで防御したり(しかし何から?)、なにかの権威を前提にしてそれを引き合いに出すことで自分も権威があるかのようにふるまう身ぶりとは、まったくちがうあり方のようだ。おもうに、いまのセージがこれほど鈍重なのは、ひょっとしてセージ家というのの多くがオッサンによって構成されているからではないかとさえ思われてくる。
いずれにしても、そうした鈍重さからはるか遠くの場所で、まったくちがう表現をしていた人がいた(もしくは、いる)というのをこの5か月でまざまざと感じた。


ちなみにこれにつけくわえると、実は「ヒアホン」という雑誌の一号でちょっとした特集が立てられており(ソ―タイセ―理論をふくむ)、それはひょっとしたら同じような主題に絡むのかもしれないとか、ちょっと思う。ただ問題は、そこで語っているのが男ばかり(というかオッサンばかり)というのがあって、そのへんに議論の限界があるようにも思われた。
ちなみに、ではオマエはどうなのかと言われると、とりあえずオッサンと言うよりヘンタイとしてアプローチするしかないようにも思われたのだが、それについては実践も成果もかなり乏しいままである。まあ、これは個人的な感想。もしくは発見とか驚きかも。
くりかえすが、だからといって、これは回想ではない。



実際、これは回想ではない。
すでにふれたように、一体、この5か月で何が変わったのか。あるいは、何かが終わったのか。
なんだかよく分からないが、この5か月で世界が一変したという表現もきく。それは、そうかもしれないと思うし、それ自体には反対しない。


けれど、自分がそういうことを言うかというと、かなりの抵抗をかんじる。世界が終わった、とくにホーシャノ―で終わったという言説には、すくなくとも個人的にはあまり賛成しない。もちろん、事態の深刻さそのものは否定しない。正確に理解しているかどうか分からないが、そこに看過できない状況があることはわかっている。
しかし、そのことを指して、これ以降に世界が変わった・終わったという言い方は、とりあえず現時点では、個人的にはしない。あるいは、そう言うことに、抵抗や躊躇をおぼえる。
なぜかといえば、それはもうすでに何処かで起きたことの、繰り返しか、あるいは続きのように思えるからだ。たとえば、それは25年前から始まっているとみることができる。だとすれば、世界は25年前にいちど終わったのか。あるいは、見方によれば、それは66年前にも起きたのだ。だとすれば、世界は66年前にいちど終わったのか。つまり、もし終わりがあるとしても、その終わりの始まりがいつなのか、まったくわからないのだ。
だとすれば、おそらくそれは、何も変わっていないのではないか。あるいは、それは繰り返しか、もしくはつづきではないのか。それは、もうずっとまえから始まっていたのではないのか。
だとしたら、この5か月で、いったい、何が終わったと言うのか。


だから、結局、なにも問題は変わっていないのではないか。結局、すべては、これからどうするかということしかないのではないか。そんなことは、当たり前なのではないのか。何かが終わっても、そのこと自体が何かのつづきではないのか。
だとしたら問題は、むしろ終わりではなく、つづきの方だ。たとえばこのちょっとした地獄がつづくのならば、まだこれからもののしることができるかどうかとか、まだこれからも事態の宙づりを宙づりとして捉えることができるかどうかとか、そういうことではないのか。
それは、一体、なにがちがうのか。これまでと、何も変わっていないのではないのか?



だから、この文章は、回想ではない。ただ、とりあえずシリーズを終えようと言うとき、何か整理しようとしているだけであり、けれどその結果は、まったくなにも変わっていない。何も分からず、何も答えもなく、ただいくつも問題があるだけで、すべてはこれからの問題であって、それはつまり、何も変わっていないことを確認しているだけだ。


回想などしている余地は、いまのところ、どこにもない。


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