オイディプス以後



◇引用((H)EAR)


:「ロウアーケース」のカッティング・エッジに位置するアーティストたちは、むしろリミットを「聴取」の次元に積極的に取り込み、自己反省的に「拘束」を顕在化させることで、「限界」を「多様性」に逆転させるという戦略を取る。(82頁)

:「音」が「アート」に変換される回路が、ある時、とつぜんに作動するのだとしたら、それは「聴く」ことの不可能性が、無限の可能性へと押し開かれる瞬間に他ならない。(84頁)


 すでにここに答えは出ている。この小文は、これ以上の解釈を要しない。かつてテクノイズといわれた議論、テクノイズをめぐっておこなわれた議論について、否定も批判もせず、ただ何が試みられようとしたのかについての短いメモとして書かれた。
 それについて、いくらかの批判や整理や要約もするつもりはない。例えば、それは新たなノイズ論であった、これまで一般化していなかったサイン波を主体として生まれた音楽やノイズを論じるものであった、ということもできるだろう。もしくは原理的な、より具体的な「音」と「音楽」をめぐる理論的な議論であって、そこには認識論ないし観念論的な転回を迫るものであったとすることもできるかもしれない。それにテクノロジーとサイレンスといった要素をつけ加えることもできよう。またより積極的には、「聴取」をめぐって、従来的な作曲者/観客ないし視聴者といった区分を突き破った(そしてそれ自体が批判と自己批判を招いた)いわば高度な芸術論として取りあげられることもあり得るだろう。あり得るにちがいない。そこには議論の穴もあるだろう。あったにちがいない。そのような評価と再批判が、またいつの日にか訪れるだろう。



 だが、そのようなことには興味はない。むしろおそらく、その議論において追求されていた一つの論点は、上のようなことであった。それは臨界を求めるものであり、あるいはこういってよければそのような運動であり、臨界と感覚の拡張が、主体と客体の関係が分解されていく地点で引き起こされるものとして把握されようとしていたと言い換えうるかもしれないものであった。
 あとは、引用とその周辺の文を参照されたい。




 そのすべては批判と自己批判がなされて、つまり今は残ってはいない。にもかかわらず、この小文が興味を持っているのはその部分である。常に挫折から語ろうとすることに抗して、ただそうでない試みのためにのみこの小文は書かれた。

 私たちは、その臨界を、あるいは本文でいうところの「限界」を、懐かしく思い出すのだろうか。それとも、まだ聴こえぬものとして身近に感じるのだろうか。もう、すべて忘れてしまったのだろうか。どのようにして終わったのかを、親しげに語り合うべきだろうか。だとしてもそれはそれで、とくになんの問題もない。


 とりあえずは、しかし、私たちが誰かということもこの小文は知らないし、そのようなことは気にしてはいない。それ以外のことについては、なおのこと、まったくさっぱり分からない。(この項つづく)