「バ  ング  ント」展

そもそも、この日記のようなものを書こうと思ったのは、先月六本木でおこなわれていた飴屋法水の「バ  ング  ント」展に行ったからで、テキストを椹木野衣氏、音楽を大友氏が担当したこの展示の、僕は初日と、あと平日にもう一度足を運んだ。これについてはこれから制作者の側からも様々な意見が出るようだし、ネットでも議論されているようだから後日に回したい。
けれど、いくつかの批判を生んだらしい初日の演奏会に立ち会って、喧噪の中にもかかわらず、とても感動した。
(たぶん)コミュニケーションの消失をテーマにした展示に囲まれながら、うねるような繊細な音の演奏が、喧噪の中で半ば消失していくのを見た。そして、そこにあった無関心や乱痴気騒ぎと、しかし演奏を途絶えなかった奏者の方々に、今の現実の一つの縮図を痛烈に見せつけられたように感じた。それは企画者の方々の本意ではないかもしれないけれど、あの状況は、ああ東京はこうなんだと実感させられるものがあった。展示は、とても美しくて悲惨で、でも社会に対してとりあえず一歩踏み出すことを命がけで訴えられているような気迫に満ちて(実際命がけだったのだが)、静かに勇気づけられた。たぶん多くの人が、あそこから言葉や思考を誘発されたと思う。直接行動でもなく、諦念でもなく、何ができるのだろう?と言われたように思う。

 それで大友氏のCore Anodeを、はじめて見に行った。
奏者10名近い。ステージからバーカウンターの前まで、ぐるりと客席を囲む。で、ストップウォッチと共に演奏スタート。すでに出ているCDの解説をみると、どうやらコンセプトとしては「互いに反応しないこと/イントロ→終わりというストーリーを作らないこと/慣習的なメロディやリズムを演奏しないこと」とある。コア・アノードはその大音量、全速力バージョンのようだった。
とにかく興奮した。いきなり前後に向き合ったドラムが物凄いリズムで、犀か野牛の群が迫り来るようだった。その対角線に向き合った大友氏とオプトロンが爆音を出していて、初めて見た白色蛍光灯を使ったオプトロンはライトサーベルみたいだったし、大友氏はターンテーブルを、獲ったばかりの生きた毛ガニを素手で掴んで、その鋏を無理にへし折っているように扱って爆音を出していた。そこに7人のギターがノイズやフィードバックを出して前後左右から入ってきて、物凄い音量と密度でうっとりして聴いていた。ギターの中村としまる氏が、なぜか楽譜台に「いなかっぺ大将」を置いているのが見えた。
音量にはすぐ慣れ、しかし音の一つ一つはほとんど聞き分けられず、なにかを考えたり周りをみたり、目を閉じたりして過ごした。目の前の少年は目を閉じていて、ステージ近くにいた女性たちは全員ちがう動きをしていた。
CDを聴いても分からなかったけれど、ものすごく強烈な混沌がとてもクールに生まれていて、退屈する暇も耳をふさぐ暇もなかった。どこにも感情はなかったように見えたし、でも機械的なものではまったくなく、色々なものが投入され過ぎていった。すごくかっこよかった。終わって沈黙がながれたとき、耳の中でまだ奇妙なものが鳴っていた。
それで帰りにラーメンを食べながら感激を一人反芻していたら、この演奏にまったく意味がないことに思い至って愕然とした。「このメロディが」「このリズムが」「この音色が」良いとか悪いとか、そういう流通しやすい意味がまったくなかった。「かっこいい」という表現も、間違っているような気さえする。「ノイズ」として括ることも、実際に目にすると躊躇われる。一体自分は何に感動したのか。すくなくとも個人的には、演奏に何らかの社会的や政治的な文脈で意味づけることが、今でもできない(ひょっとしたら「アノード」というクリシェというか文脈や意味が既にできているのかもしれないけれど、初見なので感じられなかった)。たぶん、他の人に「あれが凄かった」「ここが凄い」と説明するのが相当に困難ではないか。
それは、アノードの前に演奏されたギターオーケストラの曲とは対照的だったと思う。「バ  ング  ント」展での「 ミ ヨ」を下敷きにしたと説明された曲は、音痴の耳には一聴だけではほとんど意味が取れなかったけれど、実はそのタイトルと説明だけで推測や憶測を生み出す文脈を強くもっている。解体なのか散乱なのか、散種なのか、いずれにせよ、たぶん聴いた全員がそれを意識したと思う。
しかし、ただ音が一杯あっただけなのに、そのアノードにとても感動してしまった。なぜなのだろう?シニカルにではなく、無意味なものにこれだけ力があるんだと、それで充分という経験だった。そういうことをぼんやりと考えて、また別種の感動を覚えた。
とても準備が大変で、演奏中はさらに大変なのは分かりつつも、感謝と、また別の形もふくめて見たいという期待を。