本屋で

今日か明日が中国における抗日記念日だと思うが、戦後六〇年ということで日本では何か大々的なことが行われたのだろうか。テレビを見ているだけでは、いくつかの記念番組以外は、とくにめざましい企画があったとは思えない。選挙戦のただ中だが、その論点から「平和」については除外されているように見える。外交的にアジア連携を訴える、ひょっとしたら最後の機会かもしれないのに。
戦後六〇年。いま八〇歳の方でも終戦時は二〇歳。開戦の時はまだ十代半ばだ。戦争の記憶は失われつつある。
気になるのは、日本ではどうも「歴史」とは向き合うべきもの、普段からまといつくものではなくて気合いを入れて対峙するものとして捉えられているらしいことで、書籍でも「過去に向き合う」といったタイトルが目立つ。いいかえれば「現在」と「歴史」が対立した形で捉えられているようなのだ。
これは当たり前なのだろうか、不思議なことなのだろうか。ただ、賠償にせよ責任問題にせよ、その前提としてそれらを問うことは、「歴史」と「現在」が地続きであると考えることから始めないと、どうにも片が付かないことのように思う。たしかに歴史は書き換えられたりするペラペラな紙のような場合もあるかもしれない。だが、そうした現在のイデオロギーからの判断だけではなく、現在が過去との繋がりからなっているという当然の前提もなければ、いかなる対話は始まらないのではないか。この状況が、冷戦による「歴史の宙吊り」によるのか、バブルによるのかは分からない。ただ、歴史はますます単なる知識、物知りの道具として扱われる一方であるように感じられる。