教会と学校

たまたま本屋をうろついていたら、アルチュセールの著作がかなり翻訳され、大部の本として平積みにされていたのでびっくりした。アルチュセールは、いうまでもなくフランスのマルクス主義思想家。ちょっと貧乏学生に買えるものではないが、何かブームなのだろうか。
当然、「国家と国家のイデオロギー装置」も平積みにされていた。個人的に理解した範囲で要約すれば、これは国家の機能の一つとして、警察や軍隊といった暴力装置だけではなく、市民一人一人に世界との関係を教え込む、イデオロギー装置というものを抽出して論じたもの。その機能によって、さまざまな生産関係などが再生産されることになる。具体的には、教会と、そして近代以降は学校という組織が、イデオロギー装置として取り上げられる。その組織の推移にともなう主体のあり方については、かつて『構造と力』でも主題の一つとして論じられていた。構造的な世界の再生産というテーマにおいて、きわめて重要なものであろう。
ただ、個人的にはこの論文は、谷川稔『十字架と三色旗』(山川出版社)と併せて読まれるべきであると思っている。本屋でもそのようには扱われていないし、同書をアルチュセールと関連づけた評も見ていない(これはあるのかもしれないが)。また同書内でも「イデオロギー装置」という表現は、記憶によれば一度も出てこない。にもかかわらず、同書のテーマがフランスにおける、カソリック教会から学校へという教育制度の移行をめぐるものであり、そのもととなった論文の一つが掲載されたのが、京大人文研の『1848 国家装置と民衆』という、ずばりな題名のものであることから、少なくとも構想段階においてアルチュセールの議論が意識されていたことは明らかだと思う。
ただし、この本は、ただ理論を歴史に適応しただけのものでは、まったくない。フランス革命を転換点に、教会から学校へという教育制度の変化を基軸にしつつ、フランスにおける教会のあり方から近代教育の内実とその制度的発展を、さまざまな方法で描き出す。そしてやがては教会が、革命以後、学校というよりもむしろそれを管理する近代国家に圧迫されていく。革命以後の政権は、教育における宗教の関与をみとめないからだ。
すなわち「十字架」と「三色旗」が衝突するにいたる。いわば本書は、近代そのものを問う迫力に満ちた歴史書というべきものであろう。
含まれる内容も多岐におよぶ。教育史・学校史としてはもちろんのこと、フランスの社会史としても読めるし、教会論でもあり国家論、近代論でもある。文書館に収蔵されたカプララ文書という一次史料を説明してゆくくだりは、史料が放つ魅力を味わわせてくれる。叙述も魅力的で、とくに最後、教会が敗北してゆく箇所の描写は、奇妙な感慨を抱かせてくれるだろう。つまりは読者の興味関心に応じて乱反射するプリズムのような本だと思う。そしてその射程は、イスラームの生徒のスカーフ問題という近年の状況まで、そして多民族状況における市民のあり方如何という問題にまで及んでいると思われる。
そしてこの本を、あらためてアルチュセールイデオロギー装置論と並置する試みもなされていいと思う。そうして「理論」と「歴史」の間で現在を考えることも必要だろう。