青白い炎

そこでナボコフの『青白い炎』(ちくま文庫)を再読する。文庫になっているが、どれくらいの読者がいるのだろうか。本当は原語で読むべきだろうが、翻訳でさえ、あらためてすごい作品だと感じ入る。
前半はシェイドという詩人の遺した「青白い炎」という999行の長編詩、後半は、シェイドの晩年の友人であった英文学者チャールズ・キンボートによる、その長編詩への注釈という形になっている。その前後に、キンボートによる前書きと索引。いわば架空の研究書という体裁。
専門の評論家ではないから正しい論ができるとは思わないが、なんとも驚くのはモノローグのあり方というか、二つのモノローグの交配だ。詩「青白い炎」は、それ自体がシェイドの自分史を振り返る情感に満ちた内容で、そこではシェイドにとっての過去や恋愛や結婚、不幸な家庭生活と、老年における希望についてまでが謳われている。たいして、そのところどころに付けられたキンボートの注は、その自分史に閉じたシェイドの詩を、キンボートの視点から読み替える作業であり、ただしそこでは注にかこつけて、やはりキンボートの自分史が語られる。だがキンボートは自分のことを、革命で王権が倒壊した、北方の小国ゼンブラの亡命国王チャールズとみなす異様な注釈者であり、その注は、詩と並行してチャールズ=キンボートの青春時代から亡命生活にいたる、妄想めいた回想録となって、すなわちこちらも閉じた自分史となっている。もちろんキンボートは錯乱しているのだろう(索引の大半はゼンブラの登場人物に当てられている)。
ここでは、過去を振り返ることで成立する一人称のモノローグが、奇怪な形で壊れている。「青白い炎」は独立して読めばなめらかで感傷的な詩だが、挿入された注によってそれは絶えず罅を入れられており、異様な注釈者の介入によって、歌い上げられる内容も相対化されてしまう(キンボートは詩の草稿を勝手に編集してさえいる)。他方、形式からして断片であるキンボートの注は、頽廃的で優雅な生活を描き出すが、現在(学術的注)と過去(詩句をきっかけに始まる回想)が入り混じって書かれる内容はきわめて不安定であり、注釈者の分裂した意識を示しているように読める(キンボート担当の文章は、前書きを含め、書き直した痕跡がみられない、現在進行形で書き進められたままのような文章である)。
プルーストジョイスのような、ほとんど自我の肥大化した話者によって立ち上げられる歴史−現在は、ここでは歯車が軋んだように壊れている。二人称であれ三人称であれ、書かれた文章は一つの世界を結びがちだし、多くの場合はそれを意図していると思けれど、それがほとんど実験臭のしないまま不安定化している様を、読み進めていくうちに味わうのはとてもスリリングだ。しかも、そのどうしようもない二人の話者のすれ違いが、知から性までを含めた二人の話者の個性を生々しく突きつけてくるようで、一筋縄ではいかない。