戦争の所在

ところで第一次大戦期を調べようとした頃、いくつか愕然としたことがある。その一つは、第一次世界大戦、それもイギリスの大戦についての日本語の著作がきわめて少ないことだ。大型書店に行けば一目瞭然だが、イギリス史のコーナーに大戦期を扱ったものは、ほとんどない。論文も調べてわかったが、両手で収まるとは言わないまでも、他の時期に比べれば異様なまでに少ない。年間200本もの論文が出ると揶揄されるイギリス史研究において、第一次大戦期はあまりに空白というほかない。他方で英語による文献を探すと、こちらは山のようにあるのだった。正直、どこから手を付けて良いのかわからないほど彼我の差がある。じつのところ、現在日本語でもっとも第一次大戦について論じているのは福田和也氏かもしれない(福田氏がロイド=ジョージについての注意を促しているのは、そのとおりと納得せざるをえない)。
そこでさらに気づくのは、実は日本において「大戦」というのがいわゆる第二次世界大戦、それもドイツと日本に集中しているらしいこと。これは批判しているのではなく、現状に対する実感としてそう思わざるを得ない。なぜ批判ではないかといえば、それらについての問題意識にはっきりと共感できるからだ。なぜ、悲劇は起こったか。それを問わねばならないと言う、ある意味で命がけの問題提起には深く共感する。しかし、そこに突き当たって考えざるをえない。一つには、日本においては大戦が「第二次世界大戦」を中心として考察されているのではないかという疑問だ。他方、ヨーロッパに関する文献や資料を読んでいる限り、第二次大戦は第一次世界大戦の「反復」として捉えられているように思う。市民の反応から戦時体制を構築する指導者までがその意識の下で行動しているのではないか。それは英語において「Great War大戦」という言葉が第一次大戦だけを指すことからも明かだろう。むしろすべては1914年から始まっており、1939年からはその延長または反復としてあるとさえ言える(長期的に両次をひとまとめにして「第二の30年戦争」とする見方もある。これは反復のさらなる反復の意識だ)。Second World Warを「第二次世界『大戦』」とする訳語が流通していることに、一つの状況が見て取れる気がする。
日本においては当たり前、でも他では全然ちがう、この大戦をめぐるイメージの問題。どちらが正しいかということではなく、この齟齬は何かと考えてみる。世界史において、第二次大戦を相対化してみる。安易に「極限」といった思考に走らないこと、そうした表現を取らないこと(これは無論、第二次大戦の犠牲者を軽んじるという意味ではない。政治と歴史、共感と考察とは、微妙にかつ明確に分けられる必要があるだろう)。そしてあらためて20世紀とはなんだったかと、微力ながらも考えてみること。そのためにはイデオロギーや倫理観はいちど宙吊りにしなければならないだろう。試行錯誤。