どこかなにかがちがう

先週だっただろうか、テレビで踊る大捜査線の映画と、たまたまレンタルしてきたイーストウッドの「ブラッド・ワーク」を、前後して見ることになった。おなじような捜査もの、若干猟奇、全体としてアクション・エンターテイメントという点で一致しているが、何もかもがまったくちがう。どうして同じ映画でここまで違うのか。なんだかかなり悩ましい気分だ。
イーストウッドについては、ごく一部で絶賛されているが、はっきり言って、この国の90パーセントでは無視されていると思う。けっこう映画に興味があるという二十歳前後の人を捕まえて聞いてみると、僕の周囲では誰もが、イーストウッドがいまもなお映画を撮っていることをそもそも知らない。「ああダーティハリーのひと・・・だっけ?」が定番の答えである。「スペースカウボーイとかあったじゃない?」と聞いてみると、「ああ、なんか老人の・・・」みたいなのが、これも定番。「目撃」を傑作と思い、ケビン・コスナーとの共演作に感動したこともある身としては、もどかしいどころの騒ぎではない。まして、一年にほぼ一本という驚異的なペースで撮影し、主演して、しかもかなりオーソドックスに面白いといえるであろう作品を作っていることなど、誰も知りはしないのではないかとさえ思うときがある。
何が問題なのだろうか・・・すぐさま「変態」とかいうのがキーワードになって出てきてしまうのも、たぶんいけないのだろう。確かに、脱ぎすぎだし、苦しそうな顔がアップになるし、それを監督しつつ演じるのは倒錯している気もする。最近は、そこに老いの問題が加わり、冒頭はどれも老いのせいで苦しげな表情ばかりだ。だが、それを強調すると誰も見てくれないという困ったことになってしまう。
むしろ単に、エンターテイメントとして、何も考えずにみて面白いと思う。あれこれ事件も起きて、人々が入り乱れ葛藤して、緊迫した事態も起きるし、最後は悪が倒れる。完璧だ。踊る・・・と何がちがうのか、さっぱり分からない。頭をつかわなくて良いエンターテイメントなのだ。なぜ誰もしらないのだろうか。
しかも、アクションでありながら、最後がアクションでないところが凄いと思う。「許されざる者」を最後に、イーストウッド本人が最後の場面で銃をぶっぱなすことは、たぶんなくなってるんじゃないだろうか(「ブラッド・ワーク」でも銃を撃つが、それが最後ではない。というより、わざわざそうしているようにも思える)。ダーティハリーではもはやない。しかも、なぜかかなりドキドキするのだ。「目撃」が良いとおもったのは、最初テレビで見たときに、なぜイーストウッドが何もしないのに(傘を持って立ったまま、顔がアップになるだけである)、なぜこれほどラストが緊迫しているのか、まったく謎だったからにほかならない。傘をもっているだけで、息苦しいほどの緊迫感を味わうのはなぜなのか?
たぶん、そこで暴力が描かれようとしているからだと思う。しかもその暴力は、善でも悪でもなく、たまたまイーストウッドの側で爆発するだけのことなのだ。だから、別に銃が抜かれなくとも、拳で殴らなくとも、ナイフで刺さなくとも、傘をもって立っているだけで暴力の気配が漂い、ただならぬことが起きてしまったような緊迫感を味わわされる。というより、善の奴が銃をぶっ放してもそれは暴力であって、やっぱりそれは怖いものなのだというのは、当然のことだろう。別に小難しくもなんともなかった。単におもしろかったのだ。とすると、みんな緊迫感がそんなに嫌なのだろうか。人がバタバタ倒れれば暴力的、というのは、なにか間違っているだろう。それは俳優とかエキストラが倒れているだけなんだから、どこにも暴力なんてないのだ。むしろエンターテイメントとしての緊迫感のほうが大事じゃないのか。
実際のところ、知られていないのは、単に「過去の人」と思われているのが最大の理由だと思うけれど、全然ちがうのは、みればすぐに分かるとも思う。ジジイは怖いのだ。ジジイは面白いのだ。ジジイで泣けるのは、「ミスティック・リバー」をみれば充分である(ジジイが泣いているわけではないけど)。たぶんいかりやより泣けるだろう。
踊る、もいいけど、イーストウッドも良い。だからもっと見られて良いとおもうのだが。