ポルケ

とつぜん、抽象的な思考から解放された。風邪がなおっただけなのか、作業が進展して落ち着いてきたのかわからないが、体の感覚もかなり変わる。すとん、と現実に降りてきたような感覚だ。
本屋でデリダの『名を救う』の翻訳と、林道郎『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』のジグマー・ポルケの巻を買ってくる。デリダの本を何冊か読んではいるが、じつのところその主張を、おそらく半分もわかっていない気もする。しかし、地道に、かつ投げやりに書かれたようなテキストを読むのは刺激的だし、また大雑把な理解を拒むところがあって、結局わかったふりをするよりも、実際に読まなければならない。とくに今度のものは対話体であり、あたりまえだが翻訳であって、幾重にも主題から遠ざけられているような感覚がある。そこで論じられるのは否定神学だけれど、しばしばあっさりと使われ流通しているこの言葉をめぐって、とにかく複数の解釈が入り乱れている。議論も行きつ戻りつというかんじで、やっぱり地道に読み直し、読み進めていかなければならないようだ。なんでも「否定神学」で片を付けるのは良くないことを、とりあえず思い知らされる。
『絵画・・・』の方は、講演会形式ということもあって、すらすら読める。冒頭に知名度の低さが言われているが、恥ずかしながらジグマー・ポルケという名前を僕は知らなかった。作品をみたこともなく、来日したことも知らない。
そして知らなかったということもあるのだろうが、そこで語られるポルケの作品はとても面白そうだ。ここでも切り貼りの概念をみつけるけれど、単に図と地を入れ替えたりイメージを組み合わせるどころか、支持体と図像の両方が切り貼りでグチャグチャにされているらしく、それは絵の具の選択からキャンバスの作成にまでおよんでいて、かなり興味深い。キャンバスを張る木枠が透けて見える半透明(?)の素材に、様々な種類の絵具で落書きが重ね描きされたような作品は、底が抜けてしまって重層性だけが残されるということになるのだろうか。たしかにある意味でポストモダンなのかもしれない。最近あちこちで取り上げられているらしいリヒターよりも、その点ではかなり気になってくる。錬金術的な仕草や言動もしているらしいけれど、そのことについては時間が足りなかったのか仄めかしで終わっていて、そのあたりも気になる。見たい。
やはり、これは作品を実際にみてみないとわからないだろう。写真だけでみると、さまざまなことを想像するけれど、どれくらいの大きさかとか、絵の落書き具合とか迫力とか豪華さとか丁寧さなどは、小さな写真ではわからない。どこかで、みられるのだろうか。
あと、このシリーズ、薄いし、あまり書店に置いていないけれども、僕のように美術に興味があるけれど専門誌を漁る余裕がなかったり、事情通ではない一般人からすると、たいへん貴重。手に取ったときは、値段が厚さからするとすこし高い気がするけれど、充分にもとがとれる内容だと思う。


・・・と昨夜(10月30日)に書いたのち、『絵画・・・』をあらためて読み直していたら、巻末のビブリオに「2005, uenoノ」とあるのを見つけた。おや?と思い、ついでひょっとして?と思って、今日(31日)検索してみたところ、まったく知らなかったが上野の森美で、ポルケ展が開催されているではないか。
しかも、この時期なのでおそらく、と思ったとおり、昨日(30日)でぴったり終わっている。すごい抜群のタイミングだ。というわけで、見たいと書きながらも、その日までやっていた展覧会を見事に見逃した。よくあることといえば、よくあることだが、あまりにも近すぎる。注に触れられていないので、完全に油断していた。やはり、情報収集をしないで籠もるのはよくない。
「バ  ング  ント」のように生ものではなさそうなので、次の機会を待つこととしたい。それにしても見事に外した。やや口惜しいところではある。