void=→labyrinth?

 前回はすこし真面目になりすぎてしまい、我ながら困惑。なんと未整理で失礼な文章かと反省する。
 どれも思いつきなので反省するしかないが、ただそのうちの音響にかんして、正しく聴けない(聴くことを前提にしていない?)というのは、誰も言っていなくて妥当なら妄論として展開したら個人的には面白いかもしれないけど、おそらく誰かすでにいっている気もする(ネットに文章をアップして以来、驚くのは、実に何百万もの人が同じことを考えているということが分かってしまう、気持ち悪さというか、いや、しごく当たり前の事実だ)。ただ、前からいくつかみた演奏からすると、即興演奏というフォーマットに隠れて、空間の把握の仕方をかなり根底から考え直すような性質があるような気がしなくもない。それは思いつきで書いてみれば、近代的な均質空間を前提としていないというか、すくなくとも均質的な空間を問い直しているようにおもう。PAの排除もその一つとして考えられるし、そこではもはや誰もが同じ巨大な音に狂って盛り上がるというあり方は結果として排除されて、聴くひとりひとりが、むしろ贈り物のようにそれぞれ独自の音楽を聴くことになるだろう。
 そしてその想定しえない聴かれ方において、空間というものを均質的に捉える、あるいは透明なものとして捉えるような感覚では把握できない、かなり変わった聴覚的な世界があるように思える。もし、近代というのがそうした均質性や透明性を原理としているとしたなら、色々な点でこれはかなり面白いかもしれない。反射や共振が空間自体をたえず更新し、さらに切り分けたり飛び越したりさえするような音のなかで、それまで均質で透明で何もないような場所が、突然に、いってみれば空虚な迷宮としての姿を現す・・・もちろん、ここまでが妥当だとしても、充分ではないだろうし、とくに即興演奏であることとか、音量とか、他の音との関係とか、どれもかげろうのように掴みがたい繊細な演奏の魅力こそ重要だと思う。
・・・いずれにしても大雑把すぎるし、どれも思いつきにすぎない。ただ、いま山口で準備中(今日から開催中?)らしい大友良英の「アンサンブルズ」展はかなり面白そうで(そういえばこの建物も秋吉台と同じ設計者のはずだ)、こんな屁理屈はともかく見てみたいし、とくにフィラメントが相当に美しそうで、興味津々。単著も読み始めたけど、かなり面白そう。

 と、さておき。唐突にコンラッドの短編集を読む。時代の流行のせいか、どうにも植民地主義を相対化するような評論を先に読んでしまったため、かなり食わず嫌いでいたけれど、とりあえず短編集はかなり面白い。どれも暴力を扱っているようにおもうのだけど(取り上げられる対象は革命家とか運動家とか、兵士とか戦争なので)、暴力描写そのものは、他の大作家の方に軍配が上がるかもしれない。けれど、描かれるのは暴力に日常的に浸っている人たちで(だからこそ暴力描写を何か非日常的なこととして特に扱わないのかもしれない)、その人たちの人間関係やそれが引き起こすドラマに力が注がれている。しかも基本的に一人称だが、伝聞形式。なので、色々な内面の葛藤がそれぞれのキャラクターの心理描写としてではなく、それを見た人の目線に立った、各人の身振りや表情、しゃべりかた、振る舞い方からあぶり出すように描かれる。しかも、その事件に立ち合って語る人物の語りもまた緊張感や猜疑心、推測などで揺らぐ(そしてその話を聞いて書き取る「私」も、そのつど驚いたり緊張したりしている)。ので、暴力や破壊を(気持ちの爆発とシンクロする)カタルシスのように描き出すと言うよりは、何重にも外側に立って語られていて、こうした内面でも苛酷な破壊描写でもなく、暴力を人間関係の地点からみているようなところが、短い作品でもかなり印象的。