聴くことの劇場

 梅雨入りしたらしいが、初春の涼しさと初夏の暑さが入り混じる昨今。

 しばらく前に『サウンド・アナトミア』(北里義之)を読む。この本は日記のように書かれたものを編集したとのことだけど、僕自身はmixiとは無縁なので、今、どんな議論がされているのかは分からない。先日あった記念ライブにも行きたかったのだけど、都合があり行けずじまいで、残念なまま。
 とはいえ、副題にあるように、高柳昌行という音楽家の思想が主題であり、それをいくつかの時間軸で切っていきながら、伏線として音響派や、さらに著者自身の生活までへと話がすすむ、そのなかで、なんとなく怖ろしく、神秘や禁忌が入り混じったような印象を(個人的には)抱いていたこの人物について、丹念に音楽家の文章と同時期の批評文と付き合わせながら描いていく叙述は、様々な点で面白かった。またもう一つの白眉は、詩の朗読と演奏によるレコード「死人」にかんする箇所で、ほとんど目に見えるような言葉と音楽の動きが描写されていて、とても驚く(だからこそ大友良英をふくむライブでの再演は、どんなものだったか気になる)。
 いずれにしても、おそらく著者のあらゆる知識から生活までが組み込まれたこの本はかなりの迫力があって、通して読むと相当につよい論理に打たれた。そこで、もうすでに様々な議論があると思うけれど、あえて良く分からなかった点を二つ、挙げてみる。


1)第一部で出ている世代論的な議論について。もちろん世代論はある種の暴力的な作業だけれど、ここで出ている埴谷雄高(1909年生)と、高柳(1932年生)が、率直には同じ問題を共有した世代とはおもえなかった。もちろん、著者は厳密に同世代としているわけではないけれども、30年代生まれを「戦中世代」とし、戦後への距離感を共有した人物として09年生まれを出してくるのは、その思想形成にせよ、問題意識にせよ、まるまる一世代ズレている(あるいは一世代分の空白があるので、二世代ズレている?)ように思えなくもない。
 むしろそうすることで、なにか見えなくなってしまうことがあるようにおもわれた。たとえば、この音楽家にとっての「戦後」の問題、さらに60−70年代の様々な事件の問題との関連でも、共通性とともに違いもあり得るように思う。実際、09年生まれの文学者はすでに戦時下において思想を形成し得ており、戦中を獄中で過ごして戦後あらたな創作に着手する。一方、50年代からアメリカの文化でさえあった音楽に習熟しながら過激化した音楽家を、はたして同じ括りにしえるのか(単純に、新/旧左翼といった問題も頭をかすめる)。もちろんある視点からは相同性がみられるかもしれないけれど、一方で、個々人が何を仮想敵とし、戦後という枠組みとどう向き合おうとしたのか(もっとも直接的には、「戦後」という状況についていかなる問題と目的を有していたのか)、それはある個人の「精神史」をみるならば、とても繊細で重要な論点ではないかとおもう。
 それは、その文学者と音楽家それぞれの晩年の位置づけの問題でもあるだろう。文学者が建設しようとして「未完」におわった巨大な長篇と、音楽家がいよいよ80年代なかばから模索しはじめて途切れた試みが、具体的にどう「通底」しているのか、そもそも音楽家の活動は、「未完」というような形で(そこでは「完成」が前提にされている)括ってしまって良いのか、さらにいえば音楽家は充分に晩年を迎ええたのか。そしてもっと大きく捉えるならば、西洋音楽なりジャズなりの戦前・戦中・戦後、そして60−70ム80年代はいかなるもので、そことの関係はどうだったのかという、時代状況の捉え方にもかかわるだろう。通底や相同性は、それを通してようやく見えてくるものではないか。
 いずれにせよ、世代論はそれ自体が、括る側にせよ括られる側にとっても、異様に暴力的な作業であるので(もちろん著者は幾度か、なぜ同時代で彼だけなのか、と問うているが、その問いを流しているのも明かで、しかしその問いこそが伝記的な作業では重要だとおもう)、30年代生まれを「戦中世代」や「革命」(それは、しかし人によって様々な相違を孕んだ語でもある)といった表現で括ってしまうことで、見落とされる部分がいくつもあるのではと思われた。

2)レトリックについて。この本は、きわめてレトリカルで、哲学書をふくめ多ジャンルから語を変型しながら引用してある。たとえば前書きから「トランス・クリティーク」という語がでているけど、たぶんtranscritiqueという同題の書物で、トランセンデンタル(超越論的)かつトランスヴァーサル(横断的)な思考のあり方を指すとされていた語を、著者は主に後者に重点を置くような形で造語しなおして(「・」を入れて)使っている。その善し悪しと言うよりも、こうした変型をともなう引用が、全ページあるいは一文ごとになされていると理解すべきなのだろう。
 そうすると、読み方としては、文脈に構わず著者の論理に沿うものと、引用されている文脈にもどして再構成する、2つの読み方がありえる。後者の読み方では、たとえば、第2部では「臨床医学の誕生」がかなり引用されていて、ありていにいえばその哲学者が「まなざし」なり「視線」なりが、異常に暴走したような状況を描いた、それを「耳」なり「聴覚」にあらためて当てはめようとしている、と要約できるだろう。それに対して、では、それはそうスムーズに行くのか。たとえば、その哲学者はおそらく、「まなざし」に、他の五感ぜんぶと思考能力そのものも組み込んでおり(だからこそ見ることがそのまま思考することになり、ゆえに目は「聴くように見る」のであり、ゆえに「絶対的な沈黙」=そもそも聴覚が視覚に吸収されて存在しないような事態になっている)、そんな目玉のおやじのような状況を、そのまま耳へと移動できるのか。そのとき、視覚は、触覚は、思考は、どうなるのかという、たどられるべき複雑な位相幾何学変換のごときプロセスが、完全に捨象されているのではないか、という疑問もある。
 あるいは、その18世紀末から19世紀初頭についての医学の議論を、著者は簡単に芸術に反映させているけれど、実際、哲学者はさまざまなジャンルでそうした切断をすでに検証しているし、しかしその変化はそれぞれのジャンルで異なることも示していて、さらに芸術においては、たとえばフローベールマラルメ、マネといった固有名がすでにあがっている。そこでは、一つにはアーカイブへの埋没による表象の編纂というべき新たな事態と、他方で、「読むこと」「見ること」によって初めてその作品が成立するという、作品をとりまく状況の問題が焦点といえるかもしれない(それはモルグに籠もってひたすらにその視線で分析するビシャにも重ねられるかもしれない)。
 では、やはりそれを、音楽芸術に簡単に移動できるのか。たとえば、そこにはオーケストラの巨大化やそれにともなうホールの成立、正しく椅子に座って舞台を眺め、指揮者が正確に指揮する演奏を正しい音響設備のなかで聴く、というような、聴くことの制度化の歴史があがったりはしないのだろうか。あるいは古今東西の音楽をオペラで作品化して組み込んでゆくようなアーカイブへの埋没はみられないのか。そして、もしそれらが想像されうるなら、では、20世紀末にみられた事態は、はたして18世紀末/19世紀初頭の切断と、おなじことであるのだろうか?あるいはむしろ別の、全くあたらしい変化なのではないのか?たとえば、すこし体を動かすとまったく違うように聞こえるサイン波は、正しく聴くことが、そもそもできるのだろうか・・・
 (脱線すれば、大谷能生の議論はおそらく、こうした正しく聴かれるべき音楽が、しかし1930年代あたりを顕著に、録音された「複製芸術」としての側面を持ち始め、ではその「複製」としての側面に注目したとき、どんな聴き方がありうるか、を問題にしている。そして実際そこでは様々な聴き方があり得るし、それを今や演奏家までが意識し始めているとしたら、では何があり得るのかが問われているように思う。その点で、議論に少しならずズレがあるようにも思う)
 (また、少し脱線すれば、「聴くことの悲劇」とされた曲「プロメテオ」や、そのためだけに作られた秋吉台のホールは、そうしたホールの制度に抗してオーケストラピットと客席をバラバラに入り混じらせていて、そこでは「群島」モデルが、ただし著者とは全く別の経路から取り上げられている。それは、正しく演奏しそれを聴くというモダンな観点からすればおそらくポストモダンだろうけれど、ではそのとき著者のいう「モダン」と「ポストモダン」は、はたして何を意味しているのか?)
 等々。しかし、こんな知ったかぶりの似非アカデミズムのようなものは、誰にでもできるだろうし、それほど意味もないように思う。むしろそのうえでの疑問は、なぜ著者が、とりわけ視覚的なイメージを喚起する語を多用しているのかということ。もちろん「臓器」を中心とした語は、著者自身の生活を描いた幕間と通底して、ある種の必然性があるように思う一方で、では臓器はどのように聴かれる(た)のか、ほとんど描写されない。むしろそこから議論は視覚性に傾斜して、「指先」を介して一気に演奏する側へと視点を移動し、さらに唐突に「私」という主体性へ進んだのち、最後は「ゾンビ」といった、いずれにしてもほとんど演劇的な世界を描いているようにおもわれる。それが、なんとも「聴く」という主題から遠く離れていくように思われて、どうしてこれらの語彙が用いられているかに、すこし違和感を抱く。
 実際、「見出された・・・」というような章題目にはじまり、音響を論じた部分は「目」の系列の語に溢れている。引用されている哲学者はあくまで「見る」ことを主題にしていて、そのうえで演劇的な世界を描き出すのは当然でもあるとすれば、どのような語彙が選ばれるのか、あらためてその世界を描くに必要な言葉は何か、という問題が、課題として浮き上がってくるようにおもわれる。いずれにしても扱っている主題に比して、とても演劇的な世界が展開しているようにおもわれた。

 もちろん、こうしたちょっとした感想と疑問は一部にすぎず、むしろ差し挟まれた幕間をふくめて、実はこの本全体が単なる音楽の本には留まらない広がりをもっていて、おそらく本当に感想を書くとしたら、ここの部分から始めるべきなのだろうとおもう。またここまで書いた疑問も、まだ未整理のままであることも分かっているし、問いかける問題はまだまだあるだろう。それをふまえたうえで、誰が読むかは分からないけど、何かの議論の足しになればと、あくまで読後のノートとして記す次第。