日誌

*4月17日
金曜日。今日から3日間の休み。普通の人はまだ平日である曜日から休日をつくる。というのは、なかなか贅沢だ。

したことといえば、ネットに潜ること。いつでもどこでもできるけれど、じっくりと見ることはむしろ少ない。そんな場所へ、少し旅行をする。

いつもみるotomo、doubtwayoflife、boid、heads、improvised music in japanなどを見たあと、移動。じっくりみたのはLondon review of booksのサイト。ペリー・アンダースンなどによる短いながらも身のある評論が掲載されていて、いくら読んでも飽きない。こういうのを読むと、いわゆる本流という文化がしっかりあって、良くも悪くも批評が機能していることを感じる。敵視と誉め言葉しかない日本語のサイトばかりみていると、そんなことがあったことさえ忘れてしまっていたことを実感。ふっと肩の力が抜ける。さらにNew Left Reviewのここ最近の目次と、History WorkshopやPast & Present誌など、歴史系の目次とサマリーを一瞥。とくにNLRは数年前から顕著な現在の経済的政治的分析への特化が、さらに進んでいるような印象。

そのあと、決意してはじめてピットインに電話で予約。土日と大友良英3daysのうち2日を予約する。インキャパシタンツを見に行くのだ。と足取り軽くなる。

夕食はどうしようかと考え、1000円の予算で外食。あれこれと放浪し、池袋西口ロータリー側の四川苑に行く。友人とその彼女と3人。ここははじめて。池袋はさいきん中華が華やかだが、このところいくつか物色したために少しだけコツをつかんできた。基本は簡単。はっきりいって、店内が小汚い方が美味しい。

最大のポイントは店の明るさで、薄暗い方がいいようだ。もちろん高級中華は別。予算1000円で、飯か麺とギョウザなど組み合わせて満足したい場合は、店内が充分に明るくない方が良い。ファミレスみたいに隅々までピカピカで光が行き届いているところは、清潔だが香辛料も脂も味も、おなじように潔癖で、つまりはどこでも食べられるものになりがちのようだ。むしろ、きちんと掃除はしてあるけれど、古い食卓と内装で、蛍光灯もケチっているらしく暗い、というくらいが良い。その方が実際に現地からの客も多く、日本にいながらにして見た目も味も、旅行気分を味わえる。

で、入った店は、ズバリどこでもありがちな、古びた中華屋。とおもいきや、よくみれば、意図していない適当な薄暗さ(意図したオシャレな薄暗さはマイナスである)に、気合いの入っていない内装。何よりも、メニューに乗っていない品々が、やはり適当に貼り紙で壁中に貼ってある。この適当さが良い感じ。何気なく店の奥の席に座ってしまったが、入り口近くでは日本語でない客の言葉が飛び交っていて、妙な期待感に一同、静かに興奮。

3人でそれぞれ、友人二人はタンタン麺と五目ソバ、僕はタンタン冷麺を注文し、あと海鮮春巻を友人が追加してくれる。おそろしく雑な店員の接客で、注文のごとに説教されているような確認の仕方。

そしてやってきた麺は、どれもまず、おどろくほど大きなお椀に入っていて、あきらかに小柄な女の子の顔よりも、二周りは大きい。そこに、たっぷりしたスープと野菜がのぞき、濃厚な味付けがざっくりとしてある。五目ソバの野菜は濃いめの味付けだし、タンタン冷麺は真っ赤なスープが常温で出てきて、なかには細い麺がどっさり。とどめのタンタン麺は、特有の複雑な辛さで、湯気のでる熱さがそれをさらに加速させる。とにかくボリューム満点で、一杯食べると、腹の中に石をいれたような満腹感。友人の彼女は半分で諦めたが、それだけで普通の1杯分はあるだろうから、僕らは2杯分くらい食べたことになり、これで780円は安い。この予期しない圧倒的な満腹感が予算1000円中華の特徴。

まだ細かいところはわからないが、海鮮春巻も具の味がしっかりとあって美味しく、他のメニューも期待できそう。肉饅頭とか、麻辣冷麺、麻婆丼などに注目。

*4月18日
土曜日。今日はすでにピットインを予約したので、多少は体調管理(というか爆音に耐える体力の維持)が必要かとおもい、まず煙草を控えることにする。とはいえ、禁煙すると逆に体調にひびくので、1ミリを購入。ついでにコーヒーも避けようとするが、何か刺激を求めて、結局コーラの零カロリーものを買う。ゼロだの1だの、数字に惑わされている。

昨日と同じくふたたび池袋に出て、すこし友人と煙草(とコーラ)を楽しみ、早めの夕食に。

まず近くの本屋に入り、昨日ついでにチェックした「本のメルマガ」の過去掲載文から今月の注目新刊のひとつ、ロブ・グリエの「快楽の館」文庫版を買う。

あまりのんびりしていられないので、そのまま徒歩でロサ通りから一本横断歩道を渡ったところにある、トルコ料理というか、ケバブのテイクアウト専門店へ。ケバブピタにしようかと思うが、ここはドネルケバブロールを注文。ソースはスパイスで。

隣りにグレートインディアがあり、この付近だけで3店舗もあるこのお店の拡大が何を意味するのか、待っている間に考える。ちなみにインド料理も、なるべく小汚い方が美味しい。この場合は、とくにビリヤーニというピラフめいた料理の味が、そのお店の評価の分かれ目。日本米ではない細いコメを使い、スプーンを入れる場所ごとに味が違うんじゃないかと言うくらい多種多様なスパイスで、これまた巨大な肉とあわせてアホかというくらいの量が出てくるところが良い。これが和風化すればするほど、まず量が減り、スパイスの種類が減って味が均一化され、日本米になり、つまりは単なるカレーピラフになる(そしてしばしばこれらは段階的でなく一気に進められる)。池袋だったら、カフェ伯爵の脇をずっと奥に行ったパキスタン料理屋がベターか。そのとなりにモンゴル料理店もあるが、これは未だ謎。モンゴル料理って何だ?

と考えている内に、ケバブロールが作られる。まっすぐ立った棒に刺さった大きな肉を、その脇に立てた焼き機でほどよく焼き、肉を回転させながら削ぎ落としていく。これまた長い包丁で削ぎ落とされた肉がかき集められ、それから薄い白いクレープみたいな生地に、野菜と一緒に巻かれて完成。くるくると紙で巻くだけで、すぐ食べられるようにしてくれる。とはいえ、これまた巨大。太さも直径8センチはあるし、長さは20センチ近い。でかい。

それを歩きながら食べる。クレープのような生地なので軽いように見えるが、なかはぎっしりとケバブが詰まっていて、食べ応え満点。肉も脂身ではなく肉の味がしっかりとするし、千切りキャベツと、少しピリピリするスパイスソースも相性がいい。

とにかくボリューム感があり、一枚の肉を巻くよりも、むしろ薄い小さな肉片を詰め込む方が量が多いことを今さらながら実感。これで600円は、中身を知らなければ高いが、一度体験すれば安いことは間違いない。食べながら芸術劇場に向かうと、途中の信号のあたりで食べ終わる。これくらいの勢いで食べなければ食べきれない。芸劇前公園で一服すると、胃がずっしりとしてくる。


芸術劇場から地下通路で、さいきんできたechikaを無視して副都心線へ。副都心線は、ある意味で本当に使いやすい。各駅停車を選べば、たいていは座れるからで、これは山の手、埼京にくらべて貴重(利用者としては、本当に嫌味でもなんでもなく)な路線。
予定より少しはやめに着いてしまい、ピットイン近くのドトールに入ろうとするが、満杯。しかたないので御苑前まで歩き、タリーズコーヒーでアイスティー

ついでに戻ってドトールの隣にある本屋に入る。と、意外に硬派な雰囲気。思想や歴史物の基本図書と新刊がきちんと置いてあり、かとおもうと風俗やら芸能ものやら、しっかりと新宿三丁目の雰囲気も。なかも意外に広く、文庫から漫画まで取りそろえてある。こういう本屋は、それこそ三年前くらいまでは、どの街でもあったようにおもうのだが、サヴァイヴァルの原理のなかで消えてしまった。見回すとけっこうお客さんもいて、こういうお店の存在におもわずも安心する。


そうこうするうちにピットイン。トリオの変わった顔合わせに、集客はどうなっているのか・・・と客の一人ながらドキドキするが、意外に沢山。というか、二セット目になると怒濤のように増えてビックリした。

うーむ、久しぶりに物凄い変なものを見た。正直、絶句している。たぶんお客さんの多くも絶句しているに違いない。間違いないのは、二セットとも、ほとんど音楽ではなかったことだけだ。

僕は椅子の一番最後列に座った。なんとなく後ろの方が落ち着くという以外はないのだが、ふと右を見ると、隣の列の椅子が少し後ろに下げられていて、その机と椅子の間の場所に、なぜか歌謡曲大全みたいな本と、ギターが置いてある。ああ、でもこれは翌日用だろうと、あらかじめ明日の分を持ち込んで、隅に置いてあるのだと(なぜか)思ったのだった。

が、はじまるといきなりそこに大友良英がおり、僕はほとんど真正面から見ることができた。逆に言うと、他の二人はほとんど見えない。梅田哲也は、客席の中に席を設けて、なんだかわからないが化学実験みたいなことをしていた。青白い光とともに放電みたいな音を、実験中の作業のようにときたま立てる。というよりも、どちらかというと音は結果で、そのための実験の方がメインのような作業に一心不乱のようだ。毛利悠子についてはほとんどみえず、壁面のスクリーンでパソコンみたいな機器に何かをのせて、何かの音を出していた。しかも、客席の間の通路にもうけた(僕からは見えない)謎の機械を操作して、やはり何かの音を出していた。

僕がわかったのは、とにかく、まったくもって三人がバラバラだったこと。バラバラな行為をしていることだけだった。唯一音楽らしいことをしているのは大友良英だけで、あとは化学か、もしくは料理(よくわからないが、一瞬みえたのは、毛利が何かイチゴみたいのを口にふくんでいる・・・らしい・・・ことだった。全然ちがうかもしれない)で、しかもほとんど好き勝手に各々がやっていた。その大友良英にしたって、太鼓を叩いたりシンバルにマイクを入れて蹴飛ばしたり踏みつけたり、ギターで爆音をするばかりか歌を歌っていた!それも客席の後方から、自分のすぐ隣りにアンプを置いて、勝手にやっているのだ!

そう、状況を把握するのは、なんとも困難だった。ステージと客席とさらにその背後で、音はバラバラだし、やっていることもバラバラ、しかも通路を歩く音や道具を取り出す音もするし、あれは演奏でさえなかった。それでも時折、音楽めいた瞬間もあったが、いや、そう思う方が気のせいなのかも知れない。

正直にいえば、これは誰かが批判してもいい、すべきもののように思う。たとえば、第一まずもってこれは音楽ではない、とか、お遊戯か、とか、客席内での演出など前衛趣味(主義ではない、趣味)に過ぎないとか、火花が飛び散るのは危険のように思うが良いのかとか、まあ、なんでもよろしい。もっと古典的に、音が出る場所が安定しないのは前近代とか、思想がないとか、リズムが合ってないとか、そういうハードコアな教養と知性にもとづくクラシカルな批判があってしかるべきだろう。

そのうえで、そう、いまさらかもしれないけれど、まったく好き勝手な三人を見ながら一瞬ながら感動した。それはほんの一瞬、それまで小さな声で歌ったあと、ギターで爆音を出していた大友がふと手を止めて、壁面のスクリーンをじっと見つめ、あたりはほとんど静寂のなかで青白い火花の飛び散る音が流れていた、そのときで、毛利はステージの椅子に座って何かに熱中していた。まだ轟音の余韻と火花が残るさなか、ふと思いだしたようにまた大友が小さな声で歌い出し、三人の住む世界が完全に別々のものになり、その瞬間、一瞬だけ世界が鮮明になったように感じた。

他人を意識せず、バラバラに行動することは誰でもできるし、していることだろう。けれど、それをそのように認識するのは、あるいはそれがひょっとして時間を生きることだったり、自由であることだったりするかもしれないと思うのは、あのようにわずか三人に限定してみせる特殊な情景でしかありえないのかもしれない。自由であること、自由に行為することを知るのは、たぶんそれほど困難なことなのかもしれない。

もちろんこんな論評は、もはや音楽論でも印象批評でさえない。ただの思いこみ・・・唯一わかるのは、おそらくあのときの客一人一人が全然ちがう感想をもっていることで、同じ場所にいながら絶対ちがう瞬間をもっているだろう。

ふたつめ?・・・こんな感想は、インキャパシタンツの前で文字通り怒濤のように一瞬で押し流されたのだった。あとは・・・・・・沈黙。