日誌(つづき)

*4月19日
日曜日の新宿は、雑踏が凄い。
そんな当たり前のことを改めて実感する。どこを歩いても人人人人。
まずはタワレコを久しぶりに歩き回り、しばし見たあと、復刻されたという「スペースシアター」のCDを買う。そとは人人人。

しかたなく街をすり抜け、そのまま御苑方向に向かう。かつては世界堂までくれば、人の波は消えていたのだが、いまはマルイができたせいか、雑踏はまだまだ続く。隣り合ったドトールタリーズはどれも一杯で、しょうがなくさらに奥へ。
たどりついたウェンディーズで遅めの昼食。しかしここでさえも混んでいて、なかなかのんびりできない。副都心線の影響はよくしらないが、とにかく新宿の人の波が拡大傾向にあることは肌で感じる。

まだコンサートまで微妙に時間があまり、暇つぶしに店を出て、さらに奥まで歩いてみることにする。まっすぐ一本道をずんずん行くと、なんとなしに奇妙なビルが目立ち始める。オフィス街なのかもしれないが、やたらと個性的。前面に鏡のような窓を付けたビルなど、真向かいの風景をそのまま映し込んでいて、かといって道の狭さから考えると、それ以外の風景を映すことはあり得ず、万年固定状態。だったらもう少し変わったファサードにすれば良さそうだが・・・、気にしないことにした。ほかにも、宇宙グッズを扱っている店などを通過(ちなみにスプリング・セール中)。10分も経たずに歩いていると四谷につく。

また四谷になると、途端に光景が一変してびっくり。道は広いし、これまたビルも、ねじれたり擬似半壊だったり、ひどく個性的な建物が、ずらりと続いている。なんとなく嘆息。ふりかえり、来た道を引き返すと、先ほど見ていた水道局の建物がやたらと薄かったり、ビルの谷間に押し潰されそうな感じに残る木造コテージだったり、建物ばかりに目が行く。溜息。喫煙。今日も1ミリ。コーヒーはやめて、普通のコーラばかりを呑む。


今日はピットインは満席状態。満席というか、立ち見である。
どうしようか考えて、一番後ろのバーカウンターに背中をつけて立つことにする。灰皿をカウンターに置けるし、音に集中せざるを得ない立ち見席の一番後ろというのは、それはそれでけっこう面白い。

二日目はじまる。はたして、ここでの感想を書いていいのか分からない。初日はあきらかに音楽ではなかったし、後半はノイズで、がらりと雰囲気も違っていた。というか、この日はまったく違う雰囲気で、たぶん感想はまったく個人的なものに留まるだろう。

その最初のセットは、演劇的、といってよいのだろうか。僕はじつはまったく演劇を通過しておらず、演劇を知らないと言っていいので躊躇するが、舞台装置がたくさんあり、音や声と同じかそれ以上に、身体的パフォーマンスが展開する、というほどの意味で演劇的といっていいかもしれない。

ステージの上には、奇妙な文字の書かれた紙が吊され、右手前には床に木簡のような板(だとおもう。遠くて良く見えない箇所多い)がいくつも置かれている。また中央奥にターンテーブルが台に乗せられ、その手前に、小さな人形のようなものを幾つも吊した謎の器具。奥の壁にはキャンバスらしいものが貼り付けられ、右側にはピットインのピアノがそのまま。薄暗いステージは、これらの謎めいた(これ以外にも小さな品々が無数に置かれていた)道具に、何が起こるのかまったく予想できない。

いつのまにか、というか、ステージをながめた当初から、その木簡が並べられた右手前に、すでに吉増剛増が据わっていた。黒いジャケットに顔面はマスクで隠し、そこに鈴を顎からぶら下げて正座している。手にはハンマーを握り、照明が落とされるや、静寂のなかそのハンマーを床に振り下ろした。

このあとのことを、とても時系列にそっては記憶できない。吉増はハンマーで床を叩きながら、ときおり首を振り、顎から伸びた鈴がチリンチリンと鳴った。そこに飴屋法水が現れ、ターンテーブルに向かって何か金属めいたものを強い勢いでばらまく。いつのまにか、そのすぐ側にマスク姿の吉増が立っていて、手にしたデジタルカメラでその姿を映している。礫と鈴の音。

何が起こるのか、まったく不明の空間に、大友良英はいつのまにかあらわれて薄暗いステージ隅のピアノに座っており、ピアノを演奏し始めた。それは演奏という類ではなく、暴力的に弦をかき乱しているようなもので、そこから爆音のフィードバックノイズが噴出しはじめる。その側に、まるで影のように吉増剛増が立ちつくして、カメラのレンズを近づけている。飴屋は、いつのまにかステージから消えていた。

あらゆることがきれぎれで進行した。ときおり首を振って鈴を鳴らす吉増は、やがて地面に這い蹲ってゆったり芋虫のように体をくねらせる。飴屋はカセットでわずか4,5行の音声をリピートさせ、それをターンテーブルに載せると、ぐるぐるとカセットが音を再生させたまま回転していた。大友はピアノの中に手を入れて、鋼鉄線を引き裂くように軋ませ、ノイズを撒き散らしている。

わずかなあいだ、影のように歩き回り蠢いていた吉増が、声を上げた。中央の紙をつかみ、詩を読んでいるらしい。しかし、その声はとぎれとぎれで、書かれた文字の一部を断片的に読み上げていく。ああ、そう、よくわからないけれど、これはひょっとすると「バ  ング  ント」の、遠い続きなのかもしれない。あれほど溢れかえるほどの文字に囲まれながら、読み上げられるものには空白で埋められている。なぜ発話がとぎれなければならないかは、わからない。ただ消えている。なにかが失われている?言葉が?舌が?声が?耳が、もしくは喉が?あるいは意味が?そして目が・・・?それからまるで言葉の代わりのように、吉増は首を振ってチリンと鈴を鳴らした。

それから、どうなったのだろう?ピアノを鳴らす大友と、ステージを徘徊してデジタルカメラで何かを撮影し続けている吉増の、首を振ると鳴る鈴の音。

唐突にパンという乾いた音がした。スピーカーを通してではない、小さな炸裂音。みればステージの中央奥、キャンバスがあるところに飴屋が背を向けてうずくまっていて、壁に片手を押し当てたまま、動かない。その体の奥で、また乾いた音。
あきらかにスピーカーとは距離感がちがう、生の乾いた弾ける音。飴屋のジャージの背中が、音のたびに光って、破裂音がそれから続いた。その背中はぴくりとも動かない。端では吉増が正座して床にカメラを這わせている。パンパンパンと、乾いた音。動かない背中。フィードバックノイズは続き、その爆音は沈黙のような響きを放っていた。

怖ろしい、と、この時思ったことを覚えている。よくわからないが、このあたりで「僕」のなかでは、舞台が一つに収斂されてしまったようだった。いままで、不可解な出来事は書いたり思い出したりすることで、いわば事後的に(たとえばこの文章のように)整理されるものと思っていたのだが、このときは、リアルタイムにイメージが修正されてしまった。

それはどうやら、やみくもな暴力、あるいは衝動、あるいは狂気。というようなものだった。ここでもほとんど3人は完全に別の世界にいたように思う。吉増だけは、他の二人の間を行き交っていたが、その姿は、デジタルカメラでもってレンズ越しに寄り添うばかりで、あくまで傍観者のように二人に関係することなく、ふたたび定位置に座して静かに作業に耽るばかり。

けれども、彼らは全員が暴力に憑かれているようにも見えた。あるいは死というべきか。彼らは、たとえば、まるで読みとれぬメッセージを残して自死する者のようであり、あるいは目も喉も失って目的地もなくした放浪者のようであり、ステージはあたかも残酷な演劇のように進行していった。その意味で、大友はピアノの弾けない狂ったピアニストのようでもあり、劇伴の演奏家のようでもあった。関係性が入り乱れてよくわからない。

ただ全員が、ひどく冷徹であるようだった。放浪・破滅・破壊の主題・・・短い時間のあいだ、3人はそこからほとんどブレなかった。そこにあるのは、人と人とが交わり、けれどもつまりは決して交わらない世界。そしてその過程は、そんな終わることを知らない煉獄のような場所で、何かをどうするかという問いに対する、答えにならないまま中途で出されてしまった答えみたいなもの。それがもしこの世界に近いとしたら、それは真実としてはあまりに怖ろしいようにおもう。



いやもうひとつ、ここで、それをみながら、そのようにリアルタイムで像を修正している認識の働きにも驚きを感じる。もちろんこれは観客の一人である「僕」の受け取り方に過ぎず、おそらくはパフォーマーの意図したことではないことは間違いないように思う。というよりも、三人は互いをそもそも視認さえしていなかったのではないか。

その驚きにあわせて、わずかのあいだに二つの考え。一つは、ここで僕はあくまで観客の論理で見ていて、たぶんステージ上の彼らはまったく違うことを考えているということ。もうひとつ、形式的なものと、内容はまったく別であるという、どちらも当然といえば当然のことだ。

後者からいえば、たとえばこのセットは初日の最初と同じことをやっているように見える。3人が3人でそのままいること、ということの徹底なのかもしれない。とりあえずそう理解しているけれど、しかし同じことをしているにもかかわらず、初日にみた新鮮さは、二日目のものとはほとんど真逆のものだった(「僕」の理解では、飴屋は爆竹らしきものを使ったあとキャンバスに触れ、ターンテーブルを止めて舞台を去るが、それは自死した後の亡霊だということになっている)。そしてここから言えるのは、一つには参加している個性が大きく異なる、ということがあるだろう。
もう一つは、例えば同じ方法論を使っても、異なる結果を出せる、というところにまで表現の段階として来ているということだと思う。僕は大友良英のステージを断片的にしか見ていないのでなんともわからないけど、ひょっとしてこれは凄いことが起きているのではないか。