倒れたり食べたり読んだり

休日に・・・などと書いたせいだろうか、いきなり倒れた。疲労がきわまったらしく、文字通り身動き取れず。ふりかえれば4月からほとんど休日らしい休日をとっていないからかもしれない。全身が凝りのようなもので力入らず。ほとんど機能的な活動ができないので、無理に休みを取ってひたすら寝るだけ。

しょうがないので食事で適当に実験。前に買ってあった、セブンイレ●ン限定の超辛口インスタント・ラーメンを食す。この中本という店は以前は板橋にあったと記憶するが、いまは池袋にあって、なんだかとにかく常に行列。雨が降っても雪が降っても、2階の入り口にあがる階段までも行列の、超人気店である。ちなみに女性の客も多いのだが、ここは辛いラーメンしかなく、とにかく皆汗をかくので、うかつにやってきた彼女たちのメイクが崩壊するのを黙ってみるしかないというホラーな世界が垣間見えたりもする。とはいえ、インスタントになっても辛い。辛みオイルを半分だけ使って、内臓にダメージを与えないように気を付けたり。なかなか美味しく、完食。

それにしても、このお店のせいか、池袋にはさいきん、異様なまでに辛いラーメンを出す店が増えた。つけめん屋の激辛はコチジャンをぶち込んだものも多くて、もはや辛さよりも苦さが先立つほど。記憶に残っているのは文芸座の奥にある媛というお店の大辛つけめんというので、これは唐辛子が沢山入っているのだが、キムチが添え物にあるものの、もはや激辛過ぎるためそれが単なる白菜にしか感じないのは衝撃だった。このお店はどの品もかなり美味しいと思うが(辛いのもコチジャン投入型ではなくスープの味がするし、カモネギつけめんなど、量より質を重視した風なメニューはとくに)、なんだかやたらでない。

ちなみに池袋はつけめんのメッカだが、最近、なにやら「つけうどん」を出す店を発見し、よもやと思えば遂には「つけそば」(本当に蕎麦をつけ汁で食べる)までが登場。「つけめん」自体がザルソバのラーメン版として展開したことを振り返ると、なんだか360度一回転してしまった趣があって、うーん。まあいいや。



倒れる直前にぼんやりと見ていたのは「ユリイカ」での佐々木敦氏の連載。物凄く時間をかけて即興についての議論をしているのだが、ここ数回は「聴取」について大友良英「MUSICS」を扱っている。このあいだの感想がちょっと混乱してしまったので、読みながらちょっと整理&感想。

連載が何処に行くのかは分からないが、とりあえず最新号(6月号)では「ぼやーんと聴く」ことによる聴き方の変化について議論されている。さすがにきっちりとテキストを追っていくのは見事。考えればまずこれが前提だ。

僕は「アンサンブルズ」展をみることはできていないで不確かだが、おそらく直接のアイデアは、耳を広げるようにして聴き入ったときに聞こえてくるさまざまの環境音があり、それが既製のアンサンブル(というか演奏者)の奏でる音とさらなるアンサンブルを形成する。まるでアンサンブルの外にアンサンブルがあって、それらが折り重なって新たなアンサンブルを生み出す、そうしたアンサンブルの累乗のようなものが「アンサンブルズ」と呼ばれるものになるのだろう。普通の演奏とは違うライブやスピーカーの形式は、このもう一つのアンサンブルを召喚するために行われているとおもわれる。普通は環境音などは排除されるからだ。


ところで、連載の末尾では、この「ぼやーんと聴く」状態をどう実現するか、またそこでの即興についての論点が示されているが、ちょっと方向を変えてみると、「MUSICS」を読んでいて面白かったのは、さまざまな演奏者に「何を聴いているか」とアンケートしているところ。そこを見ると、奏者によって聴いている音と、聴いていないものがあって面白い。

「聴取」という言葉をみて驚いたのは(個人的に)、そもそもいかに聴いていないか、ということだった。これはなかなか吃驚である。音はきちんと聞いている(絶対音感かどうかは別にして)つもりなのだが、実はなんと「聴いていない」音があることか。おそらくこの言葉に興味を惹かれた人は、みんなそれにびっくりしたに違いない。

で、そこから一歩踏み込んでみると、いきなり難問にぶつかる。私たちは、はたしてすべての音を聴くことができるのか?空調の音、わずかな壁の振動、小さな物音、遠くの街路の音、それらを、演奏を聴きながらさらに聴けるのだろうか?

これは否定や批判ではない。むしろここでびっくりするのは、そうしたいくつもの聴き取れるか聴き取れないかの音を前提にした上で、即興演奏をしている人たちがいるということだ。ただ聴いているだけでも大変なのに、ある瞬間に自分から音を出すというのは、やたらでない。まるで一瞬一瞬、それまでのしがらみを断ち切るような切断の意志を感じるようでもある。・・・これは必ずしも音響云々ではなくて、「MUSICS」という本が、そういう緊張感を提示しているように読める。もちろん、それは一部分にすぎないが。


で、もう一歩、別の角度に折り曲げると、これはたぶん演奏を聴く/観る側にも、かなりの変更を迫るように思う。なにしろ、昔はそれこそ天才的な演奏者のパフォーマンスを、それとして受け取っていればよかった。たとえばカラヤンの演奏を観れば、そのカリスマ的天才の構築する世界として、その演奏を受け止めただろう。まるで思想を受け止めるように。

それが崩れてしまう。なにしろ、聴取できる音はそれだけではないのだ。場合によったら、演奏者の意図しない音や、客席の椅子の軋みや、誰かの咳や、チケットを切ったり扉を開閉したり、その向こうから流れてくる街の音までがアンサンブルに含まれてくる。客席は安心して思想を受け止める場所ではもはやないかもしれない。そこは、耳を澄ませば騒音に溢れている。

このとき、おそらく観客と呼ばれた人々は自ら動かなければならなくなる。それは空間的と同時に、耳に入ってくる情報自体を(たとえ場所を移動しなくとも)主体的に組み替える必要がある。そこには演奏者の意図しない音や、場合によっては演奏者が聴き取っていない音(少なくとも音を発した瞬間には聴き取れなかった音)までもが、観客の耳には入ってくるからだ。演奏者はすべてを完全にコントロールしているわけではない・・・思想としては受け止められない。むしろ観客が自ら主体的に演奏を聴き取っていかなければならない。そこに何が聴き取れるか、それを聴く側が判断しなければならない。

いってみれば聴くことの責任というか、倫理というか、そうしたものが問われているように思う。こうした聴取を通じて、ひょっとしてようやく演奏者と観客の間でコミュニケーションが取れるのかもしれない。観客はただ客として受動的に(あるいは批評の高みにたって)メッセージを受け取るばかりではない。主体的にそれを聴き取り、場合によっては演奏者の予期せぬものも含めて、いやさらに、そこでは聴き取れない音があることさえ分かった上で、演奏を把握し、解釈しなければならない。ひょっとすれば、それは演奏とは違う種類の想像力と創造力の問題であり、ここでようやく、想像/創造力を通じて、演奏者と観客がキャッチボールすることになるのかもしれない。それは聴き、判断する、いずれにも繊細さを必要とする作業だろう。それを含めて、演奏者のみならず、聴く側の責任のようなものを迫っているように思う。
(ちなみにこれはブログに感想を書けばいいとかそういうことではないだろう。別に胸にしまっておいても、それが聴く個人個人でされなければならないというのが大事のように思う。そしてそこで生まれた音楽が一つの解釈のみに収斂する必要はない。)これが「MUSICS」を読んだ感想の一つ。

(もちろんこれは音楽一般についてではなく、この本が示している論点を勝手に拡大解釈したものである。これでクラシック音楽を批判するとかではない。)

(ちなみに、ここから妄想だが、これをたとえば情報社会時代の判断モデルとも捉えられるかもしれない。思いつきだが、情報社会にいると、ある特定の情報は、たえず周囲の膨大な情報に組み込まれて、価値を失ったり変えたりしてしまうように思える。ニュースのある事件にしても、他の情報と混ぜ合わされ、組み合わされ、あるいはカットアップされて、相対化されたり、文脈を変えられたりする。もちろん、それはある種の楽しさでもある。詳しくはないが動画サイトでたえず既成の情報を組み替えミックスする作業がアップされ続けるのは、そうした快楽であるようにおもう。終わりがない、果てがない、意味がない、と批判するのは無意味で、おそらく果てのない文脈の入れ替え作業自体が楽しいのだ。アウラが失われているどころか、コンテクスト全体が激しく入れ替わって絶えず価値が変異する。

そこでは、おそらく観る側が積極的に解釈しなければならない。もちろんリテラシーというのはあって、情報の必要不要の腑分けをする能力も必要だ。だがそれ以上に、もう少し強い意味で、受け手が解釈しなければならない局面もあるだろう。それは個々人でなされなければならず、しかも特定の価値観のみに頼るのではなく−それでは文脈の入れ替えで価値観をすり替えられれば、簡単に振り回されてしまいかねない−個々の局面で主体的にされる必要があるだろう。それは、文字通り責任とか倫理とかいうものになるかもしれない。ちょっと、なんというかプリミティブな感想かもしれないけれども)