ノビ太の机の中のアレのような・・・

休日に、大谷能生の「持ってゆく歌、置いてゆく歌」を読んでみた。実は、もうすでに購入してけっこうな時間が経ち、一度さいごまで読んでみたけれど、ふとした時間にまた手に取ってしまう。これがやっかいな本だ。

この本はなんとも変わった本だ。文学者の音楽論でもなく、音楽家の政治論でもなく、芸術家の理論でもなく、また文学論でも音楽論でも文化論でもない。そのどれでもなく、どれでもあるような本だ。

深沢七郎マイルス・デイビスとマルコムX、中上健次宮沢賢治をはじめとして、著名な作家や音楽家、活動家がでてくる。ただしそのどの章も、「文学」論とか「政治」論とか「作家」論とかの、特定のジャンルとして真っ正面から扱わない。むしろ、ある時代のある空間に足跡を残した彼らの、誰かや何かとの出会いやすれちがい、衝突、空振りが取り上げられる。
その最大の特徴は、ある「作品」を同時代の文脈におくのではなく、その作品の「作者」の観点から時代へと戻っていくことだろう。そのとき、すでに「作者」として知っているはずの人物は、まだ作者でもなんでもなく、何者でもない未知の可能性に包まれ、社会のなかにいる一個人としてあらわれてくる。そして、そのまだ名前のない人物が、「作者」へと転じる分岐点を探り当てようとするのだ。

そこから、ふとした出会いから生まれ落ちた作品や、あるいは、ひょっとしたら生まれたかもしれないが、すれちがいによって生まれないままになっている作品について、ゆっくりと筆が進んでいく。その、生まれたり、生まれなかったりした作品に想像をめぐらせていく文章を追っていくと、良く知っているはずの作品は偶発的な出会いが生んだ僥倖であるように思われ始めるし、また作品が生まれる瞬間へと想像力を遡行させていく文章に、起きるはずだった何かがまだ眠ったまま別の歴史として生まれそうな予感へと引きずり込まれていく。(とくにマルコムとマイルスのありえたはずの出会いについては衝撃的だ)


この本は何ともやっかいな本だ。一読すれば、何にも答えが出されていないことに苛立ち、不満を覚えるかもしれない。けれど同時に、ふとしたことで生まれ損ねた何かや、誰かについて考え始め、あるいは他の「作者」として知っているが未知でもある人物についても想像力をめぐらせている自分に気がつく。著者に特有のノスタルジー、あるいは世界を常にいま現在の極東に収斂させようとする力学は相変わらずだが、それとはちがう想像力の旅のようなものが、短い章ごとにみなぎっている。いや、旅をするのは読者の方で、著者はそのための扉を幾種類か開けているにすぎない。その意味で、なんとも開かれた本だ。

ああ、読むのをやめよう。もう読んだ。よくわからないよ。と思って本棚の片隅に一度置くけれど、奥にしまい込むのはためらわれる。ちょっと時間をおいてからまた開けば、ふたたび、もう起きてしまったけれど起きていないことへの旅行がはじまる。何処へ行くのかわからない。時間も場所も、出会うはずの誰かについても未定のままだ。読み終わるのは簡単だ。でもしまい込むのはためらわれる。その意味で、ひょっとしたら読み終わることができないのかもしれない。なんとも開かれた、どこまでも開かれようとしている本。

魅力的、ということすらためらわれる。どの章からも読み始めることができて、しかし読み終わることができない。もうすでに何度も旅をさせられてしまった。その未完の旅行記はとりあえず胸にしまって、とにかくやっかいな本としか言いようがない。