表参道の混雑はスゴかった・・・

・・・はやくも夏風邪をひいてしまった。困ったもので、喫茶店などにいると冷房にやられてしまう。かといって、外は暑いし・・・。身動きとれず。家にあった推理小説などを、風邪薬でうっすら麻痺した頭で何度も繰り返し読む。


明治神宮前vacantに、大友良英+青山泰知+伊藤隆之+YCAM+高田政義の「without records/ensembles 09」展を見に行く。オープン初日。夕刻5時頃に行くと、街の込み具合がハンパでない。
内容は・・・良い意味で、あらゆる予想が裏切られた。正直、少しナメてかかっていたことを反省する。とはいえ、行った人はもうすべて分かっているし、まだ行っていない人は、あらかじめ知ってしまうと勿体ない気がする。そこで感じるのは、文字通り、直接足を運ばないとわからない感覚だろうからだ。(なので、以下、未見の方には半ばネタバレ的な内容。)



まず驚いたのは、音がとても優しいこと。レコードを乗せないターンテーブルに直に針を置く、それもポータブルのものを数十台も。というところから、ずっと爆音のノイズか、低音の唸るような轟音を想像していたのだが、予想を超えて、音はむしろ静かに、ひっそりと、優しく響いている。一台一台の小さい音が、ときおり聞こえたり響いたりする。

そしてもう一つは、薄暗い空間に拡がる見事な照明。ひとつではなく、いくつもの照明が、ターンテーブルの頭上(?)にあり、これもまたそれぞれが静かに明滅する。ときに群舞のようにそれらは光り、ときに何かの震えのようにゆらめく。こんな技術があったのか・・・複雑に走るケーブルも邪魔にならないように丁寧に隠されている。

そして、いうまでもなくこの二つが重なっている。ターンテーブルの音、そのうえで揺らめく照明、静寂、共鳴する(文字通り共に鳴いているようだ)小さなノイズ、そのうえで空間を波打つように光が移動する。音だけ、灯りだけ、音と光、音の集合と光の揺らめき、みているだけでも幾通りもの組み合わせがあり、そのどれもが、とても繊細で優しげなまま、終わることを知らない。

配置もまた繊細さを維持している。そっと見て歩いていけば、空間の床が途中でちょうど二つに割れて、ちがう模様が拡がっている。それは普段はささいなことかもしれないが、このひっそりとした展示では、そこで劇的なまでに風景が変わる。木目から、市松模様のような赤を基調とした空間に踏み出すと、どこか境界線を越えたように色調が大きく変化する。そして、それを横断して拡がるターンテーブルと照明は、二つの世界を跨いであるような広がりがあって、さほど広いとは言えない展示室には、逆に相当量の密度が感じられるだろう。
これは、ただの白い壁と床のホワイトキューブではみられない、この少々かわった場所の特性が生かされている。いや、全体としても、かなりの技術力を背景にしながら、しかし見られるのはなんとも手作りの、洗練されながらどこか生の感触の残る光景。それが繊細かつ上品な風情をくわえている。見ていて飽きない・・・というのは言い方で、絶えず変化する状態と、展示室内にずらりと置かれた品々の多さで、かなりの情報量がある。なかなか全体を把握することができない。呆然とする。


いや、こんなに一度に把握したわけではなかった・・・まずは階段をのぼると、背後から聞こえる小さなノイズに驚き、そして薄暗い光景に目を奪われて1分。ゆっくりと部屋の奥に行き、光の明滅と乱舞に呆然とするのに3分。それから、止まっては動き出すいくつものターンテーブルに前後左右、わけもわからず首をめぐらすのに5分。
それからふたたび歩き出し、音と光にいちいちびっくりしながら、じりじりと足を動かし始める・・・これはターンテーブルの展示場ではない、展示されたターンテーブルを見るのではなく、その一つ一つの上でゆらめく灯りとともに空間に浸るのだと分かってから・・・果たして何分が経つのだろうか。
なんともささやかな空間。やがて、高さも異なるいくつものターンテーブルの音が、一つ一つ聞き分けられることに気づく。するとあらためて小さな何か、それ自体としては決して強くはない、とても小さなものが、ひっそりと寄り添って、しかししっかりとささやかな世界を形成しているように感じられてくる。そればかりか、ときにダイナミックにいくつもの光と音が動くときもあるのだ。解釈よりも、まずはそのいくつもの動きを追うだけで充分。いや、これ以上は、ずっとここに留まるか、いま立ち去るかのどちらかしかない・・・

そう思って展示室を出るまで、20分か30分は経っていた。とにかく驚く。これほど驚きどおしとは、まったく予想していなかった。あとから思い返せば、一つ一つのターンテーブルの種類の多様さもさりながら、配置にしても音の出し具合にしても、かなり手が加えられている/手が込んでいたようだ。が、とてもその細部を見て回ることは、一度ではできない。


さしあたり最も印象的だったのは、手作りの感触だろうか。置かれているものは、どれもテクノロジーの固まりである。ターンテーブル、電球、またそのオン/オフを操作する装置にしても、どれも技術なくしてはありえない。というより、電球にしてもターンテーブルにしても、19世紀に開発されたような工学的な機械である。しかし、不思議と「機械」という感じ、もしくは「工業的」というような雰囲気は感じない。かといって、「廃品」というのにありがちなジャンク感もない。といってもインテリア的(室内装飾風な)というには、ぎっしりと詰め込まれて存在感がありすぎる。どうも、そうした画一的な理解を拒むところがあって(工業製品とかインテリアとか廃品/部品とかを挙げれば、とりあえずは画一性のようなものを想像するのだが)、それは手作り感というか、ある種のアナログ感覚のようなものにあるように思う。

それはヴィンテージとは少し違う。というか似たようでだいぶ違う。あえて知っている範囲で引き合いに出せば、ロンドンのV&A美術館にW.モリスの手がけたモリス・ルーム(ブルールームだったか、記憶が怪しい)というのがあって、この美術館はデザイン関係で、工業の発展を見せつけるような奇怪な鉄門扉が延々と展示されていたりして(どれもアールヌーボー的にうねりまくっている)、その中の一室。しかしここは他の、技術力による怪物的な製品というよりは、とても静謐な部屋で、非常に洗練された美学がありながら(というか工業社会にふさわしいある種のデジタル感覚にもとづきながら)、一つ一つの小さな壁面のタイルが職人的な手作業で天井まで積み上げられていて、それら一つ一つのちょっとしたズレとか曲がり方が、えもいわれない静かで豊かな空間を生み出していた。記憶としては、それに近い(ような気がする)。
まあモリスの専門家では全くないのでよくわからないが、いずれにしても、あの展示にはそうした手作業による感触をかんじた。デジタルの美学とアナログの造作、というべきか。えーと、つまりアーツ&クラフツ?だが工業社会ではなく、情報社会の・・・・・・だろうか?話が大げさ?


とりあえずまた来ることにしよう。これなら入場のための500円も充分にお釣りが来るし、あと、この展示は夜も8時までやっていて、それもいい。(ちなみにお手洗いもあって、入場するなりいきなり借りてしまったが、それも良い。ありがとうございました)

ともあれ、たぶん多く人が想像するよりも完成度が高い。驚きっぱなしでびっくり。とにかく、これは実際に足を運ばないとわからないだろう。