日常のつづき14/3月26日午後7時30分

今日も池袋に来た。ただいま、26日の午後7時30分。

誰が読んでいるのかは分からないが、こうやって毎日なにかしらを書き続けて二週間が経った。この二週間について色々なことを考えるが、そのひとつは、いまこうして続けている文章を、すこし止めることだ。このシリーズを、一度、中断する。

理由は、とくにない。あえていえば、なにか動機がなくなってしまった。実際、昨日の文章でさえ、書きながらややコトバ遊びに流れている感覚があり、それはそれで楽しいが、けれどそれはある一つのタイトルのなかでやることではないような気がして来た。
付け加えれば、何か誰かのせいではないし、何か出来事があったわけでもない。誰かのために書いたわけでも、誰かの代わりに考えたわけでもない。たぶんそれほどオリジナルなものはないし。誰かと一緒に考えていたような気もするけれど、それが具体的な誰かといわれれば、まったくわからない。だから、ただ個人的な考えだし、そして個人的に続ける理由がなくなったのだ。


これまでの言い方からしてみれば、ひょっとすれば僕自身が、「新しい日常」を、何かのつづきとしてではなく、単なる日常として受け入れつつあるのかもしれない。実際、節電によって薄暗い環境にも慣れつつあるし、人の少ない街の風景も、それとしてとくに反応しなくなってきた。とすれば、それについてはすくなくとも「つづき」としてではない形で、考えたり書いたりした方がいい。そのように無意識ながら判断しているのかもしれない。

もちろん、日常を安んじて受け入れたわけではない。まだ色々な不安はあるし、ストレスもある。それに社会的状況全体が不安定であることもわかっている。けれど、それについてもある程度うけいれることができつつある。
おそらく、経済的状況に対する感情的反応は、まだこれから来るだろう。あるいは、他の、現実に直面した際の反応もあるだろう。けれど、それはそのようなものだ。
あるいは、前に書いたように、おそらくこれから、コトバは「関心」と「無関心」に引き裂かれるだろう。何かについてのイエス/ノーを迫る「関心」と、そうしたことへの徹底した無関心。けれど、これも前に書いたように個人的には、そうした関心でも無関心でもなく、そのあいだにある「寛容さ」のようなものの在り処が気になる。
エスでもノーでもない、ちょっと気掛かりだから立ち止まってしまう、というような、そんなちょっとした感情の行方が気になる。もっといえば、いま議論すべきはイエス/ノーではなく、これから今後6か月間ほどの人命と生活をいかにして効率的かつ迅速に保証し、守るかと言うきわめて実際的な問題だと思うけれど、それについてはもっと有能で教養のある人の意見をこそ知りたい。
だから、そうしたことをわざわざここで書く必要もないだろう。


だからといって、別にブログをやめるわけではないし(笑)、僕自身は変わらずウロウロするし、メールもチェックするし(お返事するかは保証しないけど)、このブログもたまにチェックしたりするだろう。ただ、とりあえず毎日書くのは、いちど止める。

理由もなく突然はじめたのだから、理由もなく突然やめる。実のところは、それ以外に理由はない。もともと書いている理由などなかったのだし。



どうでもいいけど、この数日、ネットを見ていたら、あちこちで静かにいくつかのイベントが企画されはじめていることを知る。そのいくつかはべネフィットだけど、そうじゃない、理由が良く分からないものもある。
よくは分からないし、とくに知る必要もないのだけれど、どうやら色んな人が動いている。あるいは、動きだしている。あるいは、動き続けている。そうした、いくつものつづきがある。
何が言いたいわけではないけれど、ああ、そうなのか、と思う。


誰かがいつか、欲望は生産する、と言っていた。あるいは、どんなに社会の条件が不自由でも、いつもそこから漏れ出るものがあって、見えないどこかへと走り出し、線を描くのだと。そして社会のありようとは、そうしたどこへともなく描かれていく線にこそ、あらわれるのだと。

その正確な意味はわからなかったし、今も分からないけど、なんとなく、その文章が言いたかったのだろうことを、いまほど実感しているときはない。たしかに、いまの状況は不自由だし、不満もあるだろう。けれど、そうしたなかでも何かをやってしまう人たちがいる。何かを造り出してしまう人たちがいる。
それは当たり前なのかもしれないけれど、そのことをいま、ちょっと実感している。ような気がする。


たぶん、それはあちこちで起きるのではないだろうか。いま、家に籠っている人のモニターで、何かが起きているかもしれない。いま、東京を離れている人が、鬱積した何かを形にしようとしているかもしれない。それは、すぐではないかもしれない。けれど、たぶん、何かが造られるのではないか。あちこちで、良く知らない人が出会ったり、つくったり、見せあったり、そんなことが起きるのではないか。そんな気がする。

たぶん、そのなかには、クズなものも、中途半端なものも、新しいものも含まれるだろう。けれど、そうしたものを、それらが生まれる前から批判する必要はない。もしそれをするなら、そうしたものを見てから、体験してからだ。それらは、これからのことなのだから。それに先んじてコトバを使う必要はどこにもない。

個人的には、何かを信じると言うことはしていない。しかもそれが具体的な誰かということはない。けれど、おそらくそのようにして新しい何かがつくられることについては、奇妙な言い方かもしれないけれど、ちょっとだけ信じている。

だとしたら、それを、コトバで阻害するなど、あまりに愚かではないか? そのまえに、コトバ遊びをするまえに、何がでてくるのか、見てみなければならない。議論したり、喧嘩したり、ツッコミを入れたり、ボーッとしたり、そういうことは、あとでいい。それも、まだまだこれからのこと。
ましてコトバ遊びは、そのあとだ。


日常のつづきと、新しい日常があって、そのなかで、なにかが生産される。まだ見たことや聴いたことのない、まったくしらない何かがつくり出されてくる。たぶん、それは当たり前ことで、そのような意味で、何かのつづきだ。
それが何のつづきなのかは、さっぱりわからないけれど。



昨夜、夜の池袋を歩く。北口方面、ロサのある、そのさらに大通りをはさんだ奥のエリア。
歩きながら、すでに街の薄暗さになれている自分を発見する。夜目がきいているような感覚。べローチェを出てから、いくつかの小路を素通りしてみる。

もうとっくにデパートは閉店したけれど、あちこちで、小さなお店が開いている。なぜか知らないがいつも従業員を叱咤している(中国語で)中華料理屋。日中から明かりをすべてロウソクに代えてオシャレにしているラーメン屋もあれば、海外の観光客の方が集まるオープンカフェのあるホテルもやっている。ホストクラブもやっているし、なぜか池袋なのに「エーゲ海」と「フロリダ」という名前で向き合っているふたつのラブホテルも開いている。たしかに少し暗くなったけれど、それはそれとして受け入れた日常が、つづいている。

そこから駅へ向かうと、客引きのお兄さんに声をかけられる。客がすくないのか、すこし焦りぎみの声にたいして、目線をそらし、素早く首を横に振ってとおりすぎる。短い道で、なんどもそうやって首をふる。

それはもちろん拒絶の身ぶりだけれど、それと同時にお兄さん達全員に向かって、何の振動も伴わない無音の挨拶を送る。


**