日常のつづき13

今日も池袋から。ただいま、午後9時20分ちかく。かなり寒い。



今日はたまたま数人の(かなり若い)知人と会う。どうやら、ワカモノたちは、かならずしも首府を出たのではなく、家に籠っているらしい。何をしているかは、人それぞれのようだ。
だからといって、何を言うつもりもないけれど。ああ、そうなのか、と思う。



気分的には疲れが抜けたが、まだ体の疲労は取れていない。が、良く考えれば、これはいつものことかもしれない。
だから何が言いたいわけではないけど、ああ、そうなのか、と思う。



深夜にテレビを眺めていたら、気付いたこと。いつのまにか、それまで左と下につねに流れていた文字情報が、なくなっていた。すべてのチャンネルではないが、これはこれで、テレビを担当している人にとっての新しい日常なのかもしれない。
だからといって、何が言いたいわけではないが。



良く自分でも意味が分からないが、そういえばいきなりカフェズミに行きたい気分になる。なんだか失礼な言い方かもしれないが、トンチンカンで意味不明な録音をたくさん聴きたい。たくさんでなくてもいいが、聴きたい。聴くなら、あそこだろう。来週あたまくらいに行っちゃおうかな。
そう思ってホームページをチェックしたら、月火は休みだった。
だからと言って、何が言いたいわけではないが、ああ、そうなのかと思う。



この二週間、沢山の数字を見てきた。数は、それ自体で何かをあらわしているのかもしれないが、この数日、あらためて数だけでは意味が分からない問題に出会う。
300倍とか120倍とか、たしかに数は理解できる。しかし、それが何を「意味」しているのか、その単位はどのようなもので、どのような文脈で見たら、その意味がわかるのか。それが、まったくわからない。そして、それがわからないままに動揺している人も、沢山いるようにみえる。
コトバはコトバにすぎないし、数は数字にすぎない。けれど、たかが数のもつ力を、いまもまだ、目の当たりにしている。
だからと言って、何が言いたいわけではないが、ああ、そうなのか、と思う。



昨夜、街をひっそりと歩く。暗く、ワカモノの少ない街。
ただ、それでも愛を売ったり買ったりしているらしい人たちの姿を見かける。あまり姿は多くない。愛の市場も、この状況の市場の制限を反映しているのだろうか。
こんなときに、そんな売り買いを、ということを言う人がいるかもしれない。けれど、数のもつ意味が分からないままで、おもわず沢山のものを買ってしまうよりは、まだ日常の続きのような気がする。だからといって、それを正当化するつもりもないし、その売り買いに、日常的な暴力がどこか少しだけか、あるいはかなり入り込んでいる可能性も、もちろん考える。
けれど、そこには、沢山のものを突然買ってしまうような、非日常性はない。それが、なぜなのかは分からない。
でも、あえてつけ加えれば、ひょっとしたら、それは当然だ。なぜなら、愛は買い占めることができない。

だからと言って、何が言いたいわけではないが、ああ、そうなのか、と思う。



日常のつづき。善も悪もある、ごく変わりのない日常の、つづき。


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