作用と持続20

いまも一人で部屋の中にいる・・・ついさっき、安いカフェに入ったが、気のせいか人が少ない。涼しいせいだろうか。暑いと、涼みに来る人もいるから。


昨日の文章は、これだけ読むと何をしたのか、分からない感じになってしまった・・・つまり一度、ちょっとした小話を書いて、20分くらいして削除したのだ。ちなみに、誰かに何か言われたわけではない。また、フキンシンだからということを理由にして削除したわけでも(つまり他人の目を気にするような意図で)ない。
どちらかといえば、個人的な抵抗感というほかない・・・さらにいえば、そうした抵抗感を突き破ることに快感を覚えるタイプの文章も、この世の中には存在すると思うが、どうやらここでやりたいことは、そうした侵犯的なものではないらしい。と、今さらながら、はじめて気づく。
なんというか、ある物語を、あるシチュエーションに置いたとき、どう機能するのかということを試している感じ。文章は自分でつくっているのだが、どこかヒトゴト的な感覚もある。それがスカトロだったりするのはどうかという気もするが、まあいいや。


まあ、小話自体はコピぺして保存してあるし、アイデアは持っているのでいつでも再現できる。が、とりあえずテキストに状況をとりこむ方法として、どうやら感覚的には、現時点では一昨日くらいの文章でうまくいくらしい。だからどうした、と言われると、それまでだが・・・


ほかにも、とりあえず「奈落」を文章にしたので、まあいいか。実はこれは、もう4か月以上前からずっと考えていた(念のためいうと、かなりの拡大解釈を施しているので、直接的な参照はキケンである)。ただ、あまり詰めると、どうも誰かを責め立てるような感じになるので躊躇される。
一つ分かっているのは、もしこうした奈落が存在し、そして3月中旬に、トーキョーにいる多くの人がそれを体験したとすると。おそらくその奈落にたいする反応は、人によって大きく異なるのだと思う。そのとき、正しい反応ができるかどうかは、社会的身分や地位とは、たぶん関係がない。そう考えていた。


人によっては、保身に走るだろう。人によっては、誰かを責めるだろう。人によっては、宙に呟き続けるだろう。そうやって、自分の足下に開いた穴を、なんとかして誤摩化したり、埋めようとしたのではないか。そうしなければ、自分の立ち位置が確保できないのだと信じて。
もちろんこれはヒトゴトではないし、あれこれ書いてみたとしても、いまだに何が正しいのか、まったく何も分かっていない。その評価があるのかどうかも分からない。ただ、人によって反応が違うことだけは予想された。


で、それはそれでいいのだが、そのとき、もっともイヤなかんじなのは、権威を持ち出したり、禁止の文句を発することだろうと思っていた。つまり、自分が責任を取るのを、別の権威を持ち出して回避しようとする。それも一つの手段かもしれない。
そう思っていたら、次から次へとセンモン家と称する人がでてきて、全然センモン的でない発言をし始めていた。個人的には、センモン家というのは、「自分が話せないこと=自分のセンモン外がどこにあるのか」を知っている人だと思っていたのだが(それを裏返すと、自分の強固なセンモンをもっていることになる)、どうやらそうではなかった。たぶん、自分のセンモンについての概念が間違っていたのだろう。


だからどうというわけではない。ただ、わかるのは、どこであっても、そこが必ずしも安全ではないと言うことだけで、それはある意味で、最初から分かっていた。




閑話休題



そういえば色色企画についてがんばって書いてみたが、その後、ふとゴショジュンコ氏のブログを見ていたら、そこに自分が言おうとしていたことが、驚くべき正確さ(と短さ)で書いてあった。
なんたることだ・・・さすがだと仰け反る。



とはいえ、たったひとりで部屋の中にいるのだから、ひとりで仰け反っているだけである。窓を閉め切っているので、外からの音はしない。
ただ、どこが安全かと言うことについては、いまだにわからないままだ。


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