とくになし


 すこし久しぶりだが、ここで文章を作ってみることにする。たぶん、すごく短い。
 とはいえ、書きたいことは、とくにない。状況は、例によってほとんど変わっていない。ジジ問題にふれることに意味があるようにもおもえないが、やはりとくに変わってはいない。
 いまだに、何が起きているのか分からない、という事態が、まだ続いているようだった。もう2年と5ヶ月いじょうも、ただそのような状態だった。
 

 だから、やはり変わっていない。



 すこしだけ、前回のリンク先にアップしたものについて、追記。
 

 そこでさらっと「テープ音楽」と書いてあるが、じつはこれはけっこう変な表記である。海外でこのような言い方が通用するのかどうか、よくわかっていない。きほん的に、おそらくニポンでは、いわゆる「デンシ音楽」と「ミュジークコンクレート」を合わせるような形で、ある時期にのみ使われたような言葉だと理解している。だからといって、何か言いたいことがあるわけではない。

 とりあえずメモとして。むしろ、そこで使ってみたのが、じつはある種の「空間の音」であることのほうが重要である。ここで使用してるのは、さまざまの流通している視聴覚ソースからサンプリングしたものだが、そのさい、いわゆる「声」や「会話」を重視しているわけではない。また、だからといって自然環境の音のみに注目しているわけではない。
 じつは、これまで、そうした映像ソースから「声」だけをぬいて作業したものもある。あるいは物質的な音だけから構成してみたものもある。それは、おそらくそれなりにある種の文脈にそったものかもしれない。

 けれど、今回はすこしちがえてみた。ここでは、環境音も、声も、会話も、あるいはちょっとした動作や物質の立てる音も、すべてふくまれている。それらを、そのままつかって用いてみた。

 これが、新しいことなのかどうか、よくわからない。ただ、通常の「声」や「会話」を中軸にとらえるような考え方とは、すこしちがうアイデアによっていることはまちがいがない。



 いいかえれば、ここからあらためて「空間」の問題に、戻ってくる。ここで用いているのは、おそらくある種の空間のもつ音だといってもいい。それらをつかって、なにができるか。そこでは、何が響いているのか。なにが、ひびいていたのか。あるいは、それを忘れてしまったのか。

 これは、長らくここで書いてきたことの、一つのつづきである。あるいは、つづきにすぎない。だからといって、どうしたわけでもない。何も変わっていない。



 だから、こうして、ここで文章をつくってみることにした。ここまでやってみたが、とくに何も変わってはいないようだ。例によって、いつもどおり、おなじこと。
 なので、もう少しつづけてみることにする。それも、おなじように。



 というわけで。


 つづく。