注:空間について

 つづきを書く前に立ち止まって、前回書いたなかでひとつだけ、空間性について振り返っておきたい。とりたてて意味はないが、以前につかっていた意味はそれなりに特殊で、いくつかの展示や演奏の解釈に用いてみた。
 それについて、わすれてしまう前に、備忘録としてふれてみよう。




 すでにふれたように、それは展示について用いられた。また、それなりに特殊な意味をもたせて使われた。どういうことか。


 そこで想定したのは、前回に記したような状態の展示についてである。つまり、「音」が展示されている(と思われた)ものだ。くりかえしだが、各種の機材や、スピーカーなどではない。ただ「音」が展示されている。
 そして、それは目には見えない。
 こうした状態を把握するために、空間の概念を導入した。しかし、その使用は、少しく特殊な用いられ方をしている。それは、目には見えない音を、どう捉えるかという問題に直結していた。
 ただし、念のためだがこうしたつかい方は、きわめて特殊なもので、またきわめて個人的な形でしか用いられてはいなかった。ここにこうしてメモしているのも、そうしたゆえである。
 そのことを踏まえたうえで、ではその特殊性について記してみよう。




 その特殊性は、きわめて単純である。どういうことか。
 すなわち、空間について、「視覚的(光学的)空間」と「音響的(聴覚的)空間」のふたつにわけた。ただそれだけである。
 にもかかわらず、こうした空間性の区分(ないし分離)は、ある種の展示へのアプローチに際して不可避のようにおもわれた。理由の一つは、うえにみたようにある意味で原理的な問題として、すなわち「音は目に見えない」ゆえに、いわゆるサウンドインスタレーションへのアプローチに際して、音響的空間の導入は、ある意味で必然的でもあるとおもわれたからである。とりわけその音質や反響の具合といった観点から、いわば通常の美術作品の展示とはことなる角度での展示のあり方について、視覚性に対応した独自の「音響的空間」の設定は、それなりに一般的な問題でもあったともおもわれた。
 しかし、理由はその一つにとどまらない。より特殊な事態への対応を背景にしている。それは、つぎのような事態だ。


 くりかえしだが、音は目に見えない。そして、奇妙なことだが、音は目に見える発音源から遠く離れた場所においても、聴こえることがある。例は次に挙げよう。そこでは、もはや発音源は視認できず、どこかに機材がみえるわけでもない。目に見える範囲にスピーカーがあるわけでもない。にもかかわらず、音が(あるいは展示されている「音」が)まちがいなくある、そのような状況であった。
 具体的には、それは壁を貫通して(じっさいには隙間から透過したのだとおもわれるが、体感的には貫通していた)展示室とはべつの場所で「音」が聴こえるという事態だった。あるいは、さらには階下のオープンスペースやそこへいたる階段などにおいても「音」がかんじられる場合であった。あるいはさらに、より単純に、まったくべつの展示室において、他の作品の展示されている空間内に、その「音」があるときだった。
 これは、奇妙なことだろうか。



 じつのところ、こんなことはきわめてありふれたことであるのかもしれない。実際にいくつかの展示をみれば、いずれそのような事態にであうことになるようにも思われる。
 じっさい、先日、「I’m here –short stay」という展示に足を運んだが、そこでも最後にながされたサインウェーヴは、まちがいなく展示室の向かいにある図書室のなかでゆったりとゆらめていた。そこには「音」があったのだといってもいい。
 いや、ちがう。そもそも、こうした空間性にかんするアイデアの、つかい方そのものが「I’m here –departures-」という展示をみたことからはじまったといってもよかった。正確には、それらはアンサンブルズ09という長期的なプロジェクトを分解するためのアプローチとして用いられた。そこでは、発音源からの音と環境音、動力源を持つ美術作品の作動音、さらにそこで演奏される演奏音が、なんら区分することなくまじわることから展示が成立していた。あげくは、上記の展示において、サインウェーヴは階下の「filaments」という展示室とのあいだに空けられた穴(閉じずにそのままとされていた)をとおりぬけて、ふたつの展示室の間を移動していた。その音は、まったくとりとめがないほどに、発音源が最初からつかめなかった。それはサインウェーヴの特質ときりはなしがたい性質なのかもしれないが、いずれにおいても音は、空間的な広がりをもって、しかし視覚性とはことなるかたちで、展示をつくりだしていた。だとしたら、それをそのような空間において把握することにも、なんらかの意義が見いだせるようにおもわれたのだ。



 いや、そうではない。さらに言い換えるなら、こうしたことは、その展示における環境音についてもおなじだった。今や音楽の一ジャンルとしてフィールドレコーディングが確固とした領域を確立したことは誰もが認めるだろうが、はたしてその発音源は確認されるだろうか。もちろん、確認されるものもあるだろう。そこにマイクを向けるものもあるだろう。そのような展示も、まちがいなくある。
 しかし、すくなくともその展示では、そのようなマイクも、またスピーカーも、さらには環境音を成立させる「環境」すらもみえなかった。なぜなら、ビルの屋上を会場として設置された展示空間では、そもそも地上がみえることはなかったからである。ただ空ばかりがみえる場所で、地上からのさまざまの騒音が波のようにおしよせてきた。そしてそれらの環境音は展示の一部としてとりこまれ、他のさまざまの音具とともに、ひとつの作品を構成しているようにおもわれた。
 つまりそこでは、作品の一部となる音をうみだす発音源はみえなかった。にもかかわらず、その音は聴こえていた。
 それは、その展示の特殊性であるかもしれない。しかし同時に、このことはおそらく、きわめてありふれたこと、どこでも誰でもが体験していることである。





 いうまでもなく、こうした空間へのアプローチの理論的な背景には、マリー・シェーファーの「サウンドスケープ」論をはじめとした、フィールドレコーディングについての考察がある。あるいは、ある「マイナー科学」をとりあげた哲学書からの「光学的/触覚的空間」の区分を挙げることもできるだろう。いずれにおいても、視覚的な空間とはことなる音響的・聴覚的な空間のあり方が検討されている。上述の事柄でこころみたのは、それらの展示作品への応用にすぎない。
 こうした展示作品が、さらなる可能性を持っているのか、あるいはこうしたアプローチが十分な有効性をもっているのか、それについてはよく分からない。ただし、こうした作品が旧来的な領域区分を脱し独自の性格をもったこと、また、ありていにいえばより開かれた(空間的に・形態的に)ものとなったことは、まちがいない。実際、そこではもはや通常の展示空間は必要とされず、ほんの狭い空間でもあれば音響空間を利用して広大なスケールを(いうまでもなく音の展示には、これらにくわえて通常の美術にはない時間的なスケールももっている)獲得することができる。上述した先日の展示も、そのようなアプローチで書くことができるかもしれない。



 しかし、ここでは特権的に、むしろひとつの演奏をあげておこう。それはすでに何度かくりかえした、これからも繰り返すかもしれないものであり、アンサンブルズ09の最後、2009年の12月に旧フランス大使館を舞台におこなわれた。おそらく、このとき部屋に充満していた音をとらえるには、通常の展示空間を逸脱した、それと異なる空間性を設定しなければならない。またそれは通常の音楽堂とも異なるそれだった。


 実際、それは、あまりに奇妙だった。戸外の中庭の奥の木立の中に、エレキギターを抱えた奏者がすわり、大音量のノイズを投射した。音は、敷地内の全体に響き渡っていた。どうしてそのような演奏がゆるされたのか、いまだに定かではないが、それがいくつもの建物をとおりこしてしまうほどの大音量であったことは、ほぼまちがいがない。それ自体が、いわば危険なまでに大きいとすらいえるものだった。
 しかしそれのみではない。それを視ながら/聴きながら、この文章の書き手は大使館のなかに移動していった。館内は開放されており、そこにはいくつもの絵画作品が展示されていた。そして奇妙なことに、その館内では、いくつもの窓を貫通したノイズが部屋の中に侵入しており、展示会場は爆音に満たされていた。そして、それによっていくつもの絵の力は脱色されていくようにみえた。音が、絵画を破壊しているかのようにすらみえた。
 どうしてそのように行動したのか、そうした部屋や回廊をとおりぬけて、階段をのぼってみた。音は、階段にも溢れ出していた。どれほどのぼっても同じだった。
 そして最上階に辿り着いた。その廊下をとおり、最奥部の部屋にはいると、奇妙なことに、ことなる音がきこえた。そこでは展示された彫刻作品の背後で、サインウェーヴを操るべつの奏者が控えており、奏者の操るサインウェーヴは、背後のガラス壁面を貫通してくる屋外からのノイズに高速で精確に反応しながら部屋中を駆け巡っていた。部屋には、ガラス壁を透過するさいに歪められ、さらにサインウェーヴと反応して幾重にも歪んだノイズが充満していた。それが即興であるのか、ノイズであるのか、どちらでもよかった。迷ってしまったらしくふらりとやってきた中年の婦人が「これは何ですか」と、会場関係者とまちがえたのだろうこの文章の書き手に訊いてきた。たぶん、演奏です、たぶん。と咄嗟にそれに答えたのは、間違いだっただろうか。どちらも奏者の姿は見えなかった。ただ、暴れ回り反射する音が室内を埋め尽くしていた。




 ほどなくして戸外からのノイズは消えた。うわさによれば、館内の警備上の観点からという理由で、演奏が中止されたというが、真偽はよくわからない。しかし、それ以降、現在まで、これに似た演奏に出会ったことは一度もない。
 くりかえしだが、音は目に見えない。それは奇妙なことだろうか。それとも、ありふれたことなのだろうか。






 ここまで、あらためて空間性について整理してみた。その論述が興味深いものになったかどうかは、定かではない。また、こうした議論がそれ自体として特殊なものであるのかどうか、ここに取りあげた展示が特殊なものであったのか、あるいはこういってよければ奇妙なものであったのかも、かならずしもあきらかではない。
 すくなくとも、すでにしてここで「視覚性」と「音」が問題とされていたことだけは、確認されるだろう。もちろん、こうした空間を介して視覚と音の関係にアプローチする議論はこれに尽きるものではなく、より広い観点やさまざまの事例にそくして、さらに展開できるようにもおもわれる。こういってよければ、おそらく「サウンドインスタレーション」という作品形態をつきつめていけば、その一つ(いうまでもなく、あくまで「その一つ」である)には、こうした「音」と「展示」の相互に異なる様態があらわれるはずだとおもわれる。またここでは触れていないが、戸外ないし屋外(での展示/演奏)という要素は、必然的に公的な性格(パブリック・アートないし制度上の社会的公共性)と抵触せざるをえず、そのような公共性との関係においても論じられるはずである。上述した演奏の例が、その最後に制度と抵触して終了した(とされる)ことは、その一例でもある。いいかえれば、空間性を介した場合、音は簡単に美術館ないしギャラリーを飛び出して、公共の場所へとあふれでてしまう。その是非そのものが、ひとつの議論たりうるかもしれない。
 そのような点において、いまなお空間性の問題は、多くの論点をなお保持しているといってもよいかもしれない。



 しかし、そうしたことは、さしあたっての問題ではない。あるいは、とりあえずの問題ではない。そうではなく、ここでの問題は、むしろ視ることと聴くこと、視ることと音との、その関係にある。あるいは、視ることと音との、ひそやかな共犯関係であるといってもいいかもしれない。あるいはそこに、音楽というファクターをいれてみるとどうなるか、ということであるのかもしれない。
 わたしたちは、音楽の演奏を見に行く。行かない人もいるかもしれないが、それはそれで、問題はない。たとえば行ったとしたら、そこではやはり音楽を「見た」という体験をえるだろう。なにごとかが起きたら、それを「目撃した」ということになるだろう。


 これは奇妙なことだ。はたして、何を見たのだろうか。音楽を聴きにいったのではなかったか。そこでは、視ることと聴くこと、目と音の、奇妙な前提と関係がよこたわっている。いや、それはなにも特殊な演奏家にかぎったものではない、演奏に足を運べばどこにでもあるはずのありふれたものにすぎない。
 すべては、そこからはじまる。


(注、おわり)