オイディプス以後1

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 とくに前置きは必要としない。


 長らく、視覚性と聴覚性の問題について考えてきた。それは、美術と音楽といった脱領域的な関心ではなく、より直接的に音楽についての関心から来たものだ。どういうことか。



 わたしたちは、音楽の演奏を見に行く。行かない人もいるかもしれないが、それはそれで、問題はない。たとえば行ったとしたら、そこではやはり音楽を「見た」という体験をえるだろう。なにごとかが起きたら、それを「目撃した」ということになるだろう。
 これは奇妙なことだ。はたして、何を見たのだろうか。音楽を聴きにいったのではなかったか。



 こうしたことは、いわゆる美術展における「音」をつかった展示において、いやまして感じられる。そこでは、いったい何が展示されているのだろうか。
 多くのひとは、おかれている物体を「展示作品」として鑑賞し、というよりも正確には確認して、それを納得して過ぎ去っていく。しかし、はたしてその物体は、展示作品なのだろうか。もちろん、そのようなものもあるだろう。というより、そのようものはある。
 しかし、そうでないものもあるように思われた。そこでは、展示されているものは「音」である。音を出すための発音源ではない。いうまでもなくそれはスピーカーでもない。スピーカーから出ている「音」が、展示作品である。
 そしてそれは、目に見えない。
 これは、奇妙なことだろうか。それは、よくわからない。しかしそのようなものがあることに、あるいは少なくともそのように展示を受け入れることに、いつしか個人的には違和感を感じることはなくなっていた。幾度か試みた、空間性の観点からのそれらへアプローチすることは、そうした事柄の延長上にあることだった。




 こうした展示への接し方を、どのようにして身につけたのか、もう憶えてはいない。ただ、音楽家による(広義の)インスタレーションに足を運んだとき、すでにして演奏に接するように、それらに接していたことを憶えているのみである。だとしたら、すこしだけ巻き戻そう。


 

 くりかえしだが、演奏に接するというのは、奇妙な行為だ。そこでは、演奏家たちの姿をみることを、やめることはない。彼らの立ち振る舞い、動き、あるいはちょっとしたファッションまで、ステージ上の姿をみることになる。だが、はたして実際に注意をむけているのは、音の方である。あるいは、その音と次の音との展開や関係、あるいは重なり方、あるいは最近はあまり注意を向けなくなったが音色のようなものだ。それを一言で「音楽」といっていいかもしれないが、いずれにしてもそこでは、目で視ながら、実際は耳で聴いているという、奇妙な行為を遂行していることには間違いがない。
 こうした奇妙さに気がついたのは、いくつかの演奏に、じっさいに接してからである。あるいは、「いくつか」の代わりに、一群の、としても良いかもしれないが、それは重要ではない。そこでは、彼らは、つまり演奏家たちは、ほとんどうごかなかった。彼らの多くは(いわゆる)即興演奏とよばれた演奏をしていたが、いかに音が大きくなろうと、いかに音が弱くなろうと、楽器に手を置いている以外、みじろぎさえしていないようでもあった。
 一言でいえば、そこに感情的な起伏は、表情からは、なんら確認することはできなかった。そして、それを視て、聴いた。




 繰り返しだが、ここには奇妙なものがある。すなわち表情や身ぶりと、その音楽とのあいだに、はたしていったい、どのようなつながりがあるのだろうか。そもそも、そのようなものは、ひょっとしたらはじめからないのだ。すくなくともその様態からして、そのつながりはかならずしも必然的なものではないはずである。
 にもかかわらず、しばしば、ある演奏を解釈する(演奏を受け取るということは、なんらかの意味でそれを解釈することだろうとおもう)にさいし、その手がかりとして、身振りや表情をてがかりにすることがある。いつしかそれが逆転して、いまや大音量の音楽を再生しながら、あたかも楽器を演奏しているかのようにうごくことで、それがひとつの「音楽」として受け入れられさえしている。念のためだが、それはそれで問題がない。しかし、奇妙であることにはかわりがない。
 じっさい、彼ら(上記の一群の演奏家)の演奏は、きわめて謎の多いものとされた。また、難解なものであるともされた。また、多くの解釈がとびかい、いくつかの批判もくり出されたりした。じっさいにそれらが難解であったのか、またそれらの解釈が正しかったのか間違っていたのか、それについてはよくわからない。



 しかし、そのようなことは今となってはどうでもいいことだ。問題は、むしろそうした理解や言葉のすこしだけ向こうにある、演奏する光景のほうである。そこでは、視ることと聴くこと、目と音の、奇妙な前提と関係がよこたわっていた。いや、それはなにも特殊な演奏家にかぎったものではない、演奏に足を運べばどこにでもあるはずのありふれたものにすぎない。
 すべては、そこからはじまる。
(つづく)



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