タイムカプセルの内と外

先日、「Live!Love!Sing!」を観たあとに、かろうじて思い出したのは次のようなシーンだ。
電車の車内に、ぼんやりと窓際に腰かけて外をみる主人公、手の中にはちいさなプラスチックのカプセルが握られ、窓の外には緑の風景が激しく流れている。
そのようなシーンが、はたしてどこにインサートされていたのか、実際にあったのかどうかも、さだかではない。ただ、その手の中のカプセルがどのような意味をもっていたのかは、ドラマを見終わった人でなければ知ることはないはずのものだった。




主人公は高校生4人と教師が1人、全員が十代半ばからせいぜい二十代前半で、彼らは一般には安易に立ち入ることのできない立ち入り禁止区域や避難地域の風景の中をあるきまわる。主要な物語はほぼそれで尽きていただろう。埋められたタイムカプセルを開けにいくという設定は、ほとんどなんの障害もなくクリアされる。冒頭で神戸にいた主人公と離別したかつての同級生はあっけなく駅で、電車の車内で、改札口で再会するし、おまけに相愛の仲らしい若い教員も問題なくついてくる。制限区域への入り口も若干の逡巡はありながらも簡単に見逃されるし、同行したはずの畜産業者との会話もほどなくして深夜の街区を歩き回り、あるはずのない深夜バーに憩っては、そこの女主人が今もなお立ち入ることのできない海岸で夫の遺骨を探しているところに立ち会い、ともに慟哭と別れをすることになるだろう。たどりついた小学校であっけなくタイムカプセルは発見され、瓦礫と放射性廃棄物が包まれた黒いビニール袋が整然とならぶ校庭を見下ろしながら、彼らは彼らにしかみえない風景を目にする。通常たちはだかるはずの障害が容易にほどかれていくその行程は、そのほぼすべてが実際に立ち入ることの困難な風景で撮影されていながら、このすべてがフィクションであることを告げている。それらはあっけなく、また、あっというまに進展し、むしろ目に残るのは彼らが街をなにげない仕草で、途方に暮れたように、することがないように、することを探しているかのように歩いている、その姿だろうか。しゃがみ、立ち上がり、歩き、駆け、遠くを眺め、並んで歩き、腕を組み、手をつなぐ、そうした動作が、普段は目にしえない風景のなかで、数人の人影だけでおりかさねられていく。そのあいだ、登場している人物がいったいなにを考えているのか、まったくといって良いくらい分からず、知らされることもない。



なにを考えているのか、そのようなことについて考えること自体が途方もないまちがいであるかのようにドラマはすすんでいた。実際、最後のシークエンスで神戸にかえった主人公が、合唱団のひとりとして声をあげながら、それを指揮する恋仲であるはずの男をちらりとみる。その瞳は、はたして何を語っているのか、あるいは男が彼女を見つめ返していたのか、その胸中になにが飛来していたのか、説明するものはなにもない。画面はわずかに、彼女がかすかに目を伏せ、ほんのすこしだけ微笑むような口の動きをとらえていたようにも思うが、たとえその画面がたしかであったとしても、彼女のほほえみが安堵なのか、幸福なのか、期待なのか、あるいは歌い上げられていく合唱の曲への共感なのか、それはけっしてさだかではない。もしかすれば、その講堂の外から静かに合唱団をみまもる男の母親のことをおもっているのかもしれないが、そうした想いを壇上で指揮する男が理解しているかどうかもわからない。



それは、発見されたタイムカプセルも同じである。あまりにも簡単に発見された大きな筒状のカプセルは、どうも瓦礫のなかから見出されたようだった。だがはたしてそんなことが、そんなに簡単なのかと首をかしげる暇などないままに、カプセルは無人の校舎で簡単にあけられてしまうだろう。
どうしてカプセルなのか。その理由はかろうじて説明される。主人公たちを招いたのは、なお近隣にとどまっていた一人の少年の呼びかけによっており、小学校を卒業する時、ふたたび数年後にそれを皆であつまって開けようという約束を律儀に守るために、仲間たちを同地に呼び集めたのだ。その招集に一度はカプセルのことなど忘れていた主人公たちは、たとえその地がいまは立ち入りができない場所であっても、そこへ向かう決意をする。
けれど、こうした答えは、かならずしもただしくはない。彼らの、なにげない、ふとした会話のなかで明らかになるのは、呼び集めた少年にとってタイムカプセル自体はそれほど大事ではないということだ。むしろ彼らのひとりはぼそぼそと「君にとって大事なのは、私たちを集めることだったのよね」と答えを示し、「そうなんだ、そこにはどうでもいいミニカーしかなくて、それはどうでもいいんだ」と答える。それが声に出されたかどうかはさだかではないが、それはつまり、ここに集められた彼ら自体がひとつのタイムカプセルだったということになるのだろう。今はうしなわれた、ある時でとまっていた一つの関係を、もういちどよみがえらせること。
そのような意味で主人公たちの姿こそが一つのタイムカプセルにほかならず、だからタイムカプセルは掘り返されるまえから、そもそものドラマがはじまった冒頭から画面に映りつづけていたことを、そしてすでにそれが開封されていたことを、理解することになる。



いや、だがそれはやはり、安易な解答のひとつにすぎない。実際、発見されたタイムカプセルからは、具体的にモノがとりだされるのだ。
そこから取り出された、ありふれた家族写真のおさめられたアルバムは、それをみつけた少年にとっては失われてしまった、そして唯一のこされた写真として、落涙と感涙をまねいていた。あるいは、何気ない文章が記された紙片をよみあげて、かつての小学校の時代を回想して声を上げる少女もいるだろう。そこには、まちがいなくタイムカプセルとして中に何かが入っていたのだ。
けれど、しかし、物語のすべてをタイムカプセルの開封に収斂させること自体もまちがいかもしれない。深夜の街区の放浪で出会った女性は、今なお失われた夫の遺骨をさがして海岸線を歩いていた。彼女にとっては、ふとしたきっかけで失われた何かが見つかるというフィクションは(まだ)訪れてはいない。あるいは、20年前の震災で兄を亡くした恋仲である男性教師にとっては、そもそも開けるべきタイムカプセルそのものが残されておらず、震災のあとの時間を、まるでみずからの感情を凍結してしまったように生きている。
もしかすれば、そのような意味でこのドラマは、「震災」をえがいたものではないのかもしれぬ。実際、そこには災害(ディザスター)をおもわせる映像はほとんど入っていないし、とりわけ舞台となった地域の爆発も、混乱も、あるいは破壊も、それというほど具体的に紛れ込んではいない。むしろそれは、災害で時間が止まった光景についての、そしてそのような意味においてのみ災害が今なお続いている場所がとらえられているというべきかもしれない。



場所。
時間がとまったこと、時間が止まったままそこにあること、時間が止まったまま目につかない場所に埋もれることになったもの、もしタイムカプセルをそのように定義するならば、全く別の一つの真実に辿り着く。いうまでもなくそれはこの場所、舞台である立ち入り禁止区域の、3月15日の爆発で都市としての時間が停止した福島の一つの地域である。
それは、奇妙な定義だ。タイムカプセルをあける旅をえがくドラマが、まるでタイムカプセルのようになった場所でくりひろげられる。そしてドラマはフィクションであるとしても、その映像そのものは現実の福島を風景としておさめられている。



それが震災の映像であるのか、それとはべつの景色をとらえているのか。定義が必要であるのかどうなのか。このタイムカプセルをどのようにあけるべきなのか。問いをまえに、声をあげるべきなのは、放浪する主人公だけでは、おそらくないはずであるだろう。






わずか75分の夢幻劇で、おぼえているのはこのようなこと位だった。
冒頭にインサートされたはずであろう、電車内で主人公がにぎりしめているプラスチックのちいさなカプセルは、発見されたタイムカプセルのなかに置かれていた、かつて失われた小学校の「空気」がそのまま梱包されていたものだった。それをみつけた主人公が、たかぶる感情に階段をかけあがりながらカプセルのテープをはずし、その空気を解放したとき、叫んでいた希望や期待は、目の前に広がるもう一つのタイムカプセルである汚染地域の前ではあまりにも無力だった。彼女は、だから「つもり」とさけぶ。ふるさとがもどる「つもり」と。放射能がない「つもり」と。なんの名詞もない、ただ、つもり、と。



それが単なる無力であったのか、それについても知るすべはない。ただ、分かっているのは主人公がそのカプセルをもういちど閉じて、神戸へと持って帰ってきたことだ。
そのなかに何が入っていて、ふたたび開かれることがあるのかもさだかではない。それについて彼女がどのような思いを抱いており、それを何のために持ち帰って来たのか。あのさけびが、だれに向けられたものであったのか、そしてあの旅でどのような答えを見つけたのか、そのようなことについてもなにも分からない。


けれどドラマを観終わったあと、あのちいさなカプセルがどのような意味を持っていたかは知っている。それは、忘れられていたタイムカプセルのなかから取り出されたものであり、それとともに失われたはずのいくつかの記憶と、景色と、友人を彼女にもたらしたものであることを。まるでタイムカプセルが開封されたかのように、それが彼女によみがえったことを。
そして、たとえフィクションのうえであったとしても、それについては決して「つもり」ではないことも。










付記 本文では物語の筋にそって記述をおこなったが、ドラマの全体ないし印象と言う点からした場合、より注目されるのはじつのところ、その音楽である。
とりわけ終盤で合唱団によって歌われることになる「しあわせはこべるように」は、それまでの旅程のなかで映し出された被災地および避難地域をあたかもその歌で(この歌が被災直後の神戸でつくられたことはよく知られている)を救済するかのようにひびく。それは奇妙なことに物語の筋をこえて―実際、物語内の設定ではこの歌はごく少数の者にしかかかわりがない―より大きなスケールで、あるひとつの被災地がべつの被災地を歌によって救済しているかのようなフィクションとして出現しているようでもある。


別の言い方をすれば、この歌をとおして、ドラマは複数の構造をはらんでいるようでもある。つまり、一方には主人公を中心とした避難地域のなかをさまよっていくタイムカプセルをめぐる―それは本文でふれたように決して安穏とした道程ではない―ロードムーヴィーといった筋があり、しかし他方でより広大な地理的・歴史的スケールにおいて神戸と福島が共振するかのような説話構造がみられるといってよいものかもしれない。前者が個々の俳優の仕草やみぶり、言葉から構成されるのに比して、後者では物語の細部をとびこえていくつかの映像と言語を、具体的には震災直後の映像と「ふるさと」という名詞をとおして、歌を媒介として二つの地理が接続される。わずか75分の映像劇はこうした点で世代と場所をこえた、歴史と地理をもって福島への想いを複数のレベルでえがきだすドラマとして出現するといってよい。





だが、このような音楽の位置、あたかも現実の悲劇に救済や祈りをもって立ち向かおうというような位置は、いささか偏りすぎている。実際、ドラマ冒頭でひとけのない海岸線を歩く主人公がそこに落ちる夕陽をみて「うつくしい」とつぶやくように、このドラマにはそうした悲劇的なトーンはかならずしも漂ってはいないし、まして時に想像されるような汚染された地を禁忌としてたちどまってみるような姿勢はどこにもありはしない。すでにふれたように彼ら少年少女たちはその地の中を臆することもなく歩き回り、また帰還したのちも悔恨のような表情などまったくみせることはない。そのような意味で、これはフィクションであるとしても、いわゆる悲劇とはとおくはなれたところにあるといったほうがいい。


なかでも、それをもっとも明瞭に示すのは、本編ではほんのわずかだけ登場する夜の奇祭のもつ強烈なイメージだろう。主人公の少女が夜の立ち入り禁止区域のただなかで遭遇するそれはどうやら幻視によるものらしいのだが、深夜の街路にそぐわない苛烈な照明と色彩が充満するなかで、どこからやってきたのか大勢の住人が踊り狂い、神輿や櫓がかつぎだされ路上を占領していく。その群衆の中には捜索されているはずの行方不明者の顔もちらりと映り、だが彼らはみなが笑顔で「つもり」を連呼した音頭をくりひろげつづけている。
映像ではほんの数分しか映らないこの祭りは、事前に放送されたドキュメンタリーから実際に避難地域からの避難者を集めた一夜限りの(通常、原則として立ち入り制限区域では夜間の立ち入りは禁止されている)撮影イベントとしておこなわれたことが知れるのだが、ドラマ全体の中ではむしろ唐突な幻視による路上の祝祭は、ほとんどフェリーニの「81/2」を彷彿とさせる夢幻劇の色合いをあたえるほどのインパクトをもっている。あるいは、そこで連呼される「つもり」(本文でふれたように主人公は後半でこの言葉をあらためて声にだすことになる)の強烈な揶揄や風刺のメッセージは、そのリズミカルで明朗とした音頭のメロディと相まって、幻想的な不条理劇というべきか、シュルレアルな黒いユーモアまでが溢れ出すだろう。
そこにはフィクションがどうしても寄りかかりがちな、悲劇や救済の物語といったトーンはまったくない。もっといえば、おそらくこのドラマはほとんどこの一点において、悲劇と救済の物語であることから自らを救済しているかのようだ。





ここまで、音楽について付記した。もちろん、くりかえしだがこのドラマはフィクションである。だがこのように振り返ってみれば、おそらくここにはタイムカプセルの内側と外側をめぐる現実と虚構のさらに外側にある、悲劇とその救済、汚辱とその禁忌、夢と現実と幻想といった、複数の物語がいりまじるように含まれていることがわかるであろう。
そしておそらくこうした物語の水準において事態をとらえたとき、現実に対してどのような物語をかたちづくるべきかという問題において、その射程はいまやフィクションの領域にとどまるものではない。



(2015.4.6.)