オイディプス以後 6


もうすこし、回想をつづけよう。場所はギャラリーと図書室が同居する、ある空間についてだ。



くりかえしかもしれないが、そこに辿り着くためには、まるで迷路のような街区を歩かねばならなかった。すでに、わずかに夕暮れになろうとしている時間で、見知らぬ小道やさまざまの商店がならぶ坂道、はばひろい横断歩道、ふとした私道に立ち並ぶ木々などのあいだをくぐりぬけて、ようやくそこに辿り着いたときにはすでに日は落ちかけていた。さきほど通過したちいさな交番の記憶はまだ残り、階段の奥のドアの周囲に人影はない。
ドアを開けると、そのなかには誰も客はおらず、わずかな灯りだけが室内を照らしていた。手前から左側に、狭いスペースながら本棚がならんでいて、大判のカタログをふくめた幾冊もの本が、雑然とした印象でつめ込まれている。その脇にはちいさな白い直方体のテーブルと、いくつかの椅子、奥にはギャラリースペースになっていて、そこは照明が落ちている。バーカウンターはそうしたスペース全体をつらぬくように室内の右側を占領していて、どうやら奥にはレコードの棚、ほかには洋酒のボトルが同じように雑然と配置されていた。灯りの落ちたギャラリースペースのせいか、室内はほとんど薄暗い影のなかにしずんでいる。全くの無音で、陰影だけで構成された室内というべきだろう。



他には、誰もいなかった。そこにいたのはギャラリースペースと図書棚のあいだに置かれた一脚の椅子に腰を下ろし、みなれたジャケット姿ではなく白いワイシャツで黒い帽子をかぶり、足を組んでただ本を読んでいた。あとで知れるように、表紙も背表紙も白いその書籍は、タイトルの英字だけで判断すればモートン・フェルドマンの初期作品をあつかった研究書だが、人影がこちらをみて本を閉じるだろう。通常、演奏もすれば作曲もし、文を書けばパラドックスと隠喩と比喩を混ぜ込んだ文体で論者を撹乱する。あまりにも多い沈黙と休符は語る者の言語を沈黙させ、数多くのヴァンデルヴァイザー楽派との共演はなおも現代の音楽の奇妙な立ち位置を保っている。極度に抹消されたその演奏は論理式の端正さと逸脱するアナーキーの美と芸術のあいだで、ほとんど非音楽的だとみなされることさえあることは、よく知られている。
そこは現代ハイツである。そして薄闇に沈んだ室内にほとんど影のようにあるのは杉本拓だった。




さしあたりその姿は、演奏しているときと同じで、椅子に腰かけ、ギターを抱えて、目の前の譜面を凝視している。音はわずかにドアの隙間、窓の向こうの環境音が室内にしのびこんでくる。
その音楽は、沈黙でもまばらでもなく、すでに時間を埋めているようにして、譜面を凝視する合間にも成立している。実際、多くの論者が空をつかむように綴ったように、一概なドラマはそこにはない。あるのは、あくまで端正にみがきあげられた音の配列と、終始それを成立せしめる過剰な暴力性の支配というべきものである。なるほど実際、多くの論者の口をつぐませた苛酷な状況には、そのモノリシックな音の佇まいにくわえてなおふれるべきものがあるとすれば、おそらくそこに横溢する強度のアナーキーであるだろう。それは比較すればするほど一般音楽への暴力のように映る。




とはいえ、いまはギターは手にしていない。周囲にあるのは酒瓶と書物で、奥のギャラリーは消灯されて闇に消えている。まるでフェルメールの室内風景、もしくはレンブラント肖像画をおもわせる薄暗い照明ばかりが強い印象に残る。



毎週水曜日の夜、下北沢と言うより隣駅である池ノ上のちかくにあるこの場所で、バーテンダーを役回りに店に控えている。もうしばらくすれば知れることだが、そこには音楽家ばかりでなく、とりあえずの酔客や隣人、知人といった人が雑多に訪れ、なんの気なしに腰かけることになるだろう。そこでの会話は、はたして日々のニュース、町中のちょっとしたグルメ、いくつかの街の過去と未来、そのようなものだろうか。
あるいは、顔なじみの仕事話やなにげないいつもの身辺雑記といった類いのものだろうか。その話題は、身近な日常の出来事から、芸術にかんする註解までおよんでいたようにおもわなくもない。


だとすれば、あるいは、そこに音楽家のはなしもふくまれただろうか。たとえば、ギターの、もしくは最近というより長らく模索していたという微分音や倍音列に焦点をあわせた調弦、およびその奏法と言った事柄はどうだろうか。もしくは、ケージやフェルドマンといったアメリカ現代音楽の孕む解釈についてだろうか。それとも、そうした現代音楽の演奏もし、また共に作曲も作品も制作しているヴァンデルヴァイザーの音楽家についてだろうか。

どれにおいても、さきにふれた端正さとアナーキーの問題は、そのうちのいずれにおいても含まれている。楽器の改良にみられる論理性と暴力性、パターンや構造から音楽を作り出すさいの実験性は、一概に想定されるたんなる演奏行為と、それが孕むドラマ的な音楽展開への暴力が同居している。それに、ヴァンデルヴァイザー楽派において知られる異様なまでに引き延ばされる、空白のような時間は、そこに響く多種多様な音の美しさとはべつに暴力的なアナーキーを宿してあるだろう。

だがそれは、かつて数度見たことのあるアコースティックにプリペアドされたギターの繊細かつミスティックな演奏から、ほとんど変わることがないようでもある。それからいわゆる音響を見捨てたのち大胆な沈黙を導入した演奏が、観客が即座に席を立つほどの疎らな領域に接近したとしても、それはこういってよければ、不条理なまでに奇妙な端正さをもたされた音の均衡美がいわば4分34秒以降へとひき延ばされていくアナーキーな時間に溢れていくといった類いのものだ。

受苦のような体験とも、空白とも冗談ともいわれたそれは、すくなくともそこに憩うことはできないし、安住することもできない非音楽的な時間の跳梁という点では一致するだろう。
その時間の開口は、ようやくにしてヴァンデルヴァイザーによってある側面ではアカデミックな形で切り開かれつつある領域であるかもしれないし、そこにケージに、フェルドマンに、ウォルフについての系譜もみてとることができるようでもある。たとえば、くりかえしだが、4分33秒の議論の中でもっとも興味深いのは、それが音楽の演奏によって時間がくぎられるのではなく、あらかじめ時間が区切られていることだ、いいかえれば時間がそのまま音楽形式になったことであるだろう、たとえば仮に音楽の聖性のようなものを設定したとして、それが成立するのを日常とは異なるドラマ的ダイナミズムの時間体験に求めるとすれば、その片隅にこうしたアナーキーで、それゆえに偶然性や確率や環境音を許容さえする時間形式を添えてもよいかもしれぬ。




とはいえ、そうした事柄について問いを発するのは、まだ薄暗いこの部屋にいる時点ではない。
もしかすればそうした問いを発することができるかもしれないが、とりわけヴァンデルヴァイザー楽派のマンフレッド・ヴェルダーの作品や演奏をみたのち、そこが極点とおもわれた4分半がとりとめなく引き延ばされていくような、そうした非音楽的でアナーキーな時間形式についての見聞や議論のいくつかを集めはじめた後のことだった。あるいは、そのヴェルダーとの共演において確認し得た、ほとんど白紙にしかみえない楽譜に小さく点在する数字をよみといていく確率分布によるらしき作品群もまた独自の形式をおもわせるものであるけれど、それもこの空間を立ち去ったはるか後、べつの場所で見ることのできる光景であり、いつしか確率分布と群による非音楽的時間の音楽について叙述するとしても、それはいまこの室内にいるこの時点ではない。
部屋はまだ薄暗い。






いま手元にはないギターには、すでにさまざまな工夫がほどこされている。一見あたりまえのエレキギターでありながら、それはちょっとした調律と弦の調整によって、ほとんどカスタム・メイドといっていいほどに変型されてしまっているのだ。調弦は入念に倍音列にしたがって各弦がチューニングされ、音程のほぼすべては微分音しか出ないようになっている。弦そのものにしても複数の製品から適当とおもわれるものが選択され、じつはどれも一様ではない。それが弾いているメロディは、そのままではただ恣意的に単音をはじいているだけだが、その実、それは通常の日常言語からアクセントを抜き出してきて構成された擬似的な発話であり、もしくはそれと全く関係のないごく日常の童謡であったり、それともなんの関係もなかったりもしている。
それは譜面も同様である。これもまたヴァンデルヴァイザー楽派にも共通する流儀のひとつだが、作曲においてその譜面にはおおくのアイデアが―それをすることで音楽の形式的拘束から逃れるかのように―さまざまな工夫を凝らされて導入されている。たとえば、実際には譜面が一連のものではなく、そこではテキストスコアから図表、五線譜の省略と言った逸脱の手法があふれている。とりわけ、一般に通しページで構成されるはずの譜面はしばしば一枚ごと、もしくは一ページごとに構成され、ながければ3時間ちかくにも及ぶ演奏の構造は全体を一貫してと言うよりもページ単位から構築されている。五線譜のおおくは小節にくぎられていないし、タイム・ブラケットやチャート、図形だけが記されている場合もあり、アンサンブルでは総譜がない場合がおおい。テンポや持続、オクターブの指定がないことさえある。
くわえて、なかには一般とことなるメディアが導入されることさえあり、たとえば同楽派のアントワン・ボイガーは朗読の間隔を一語8秒と設定するだけで『エチカ』を「calme etendue (spinoza) 」の楽譜に変容させてしまっている。読まれた本として、また声楽曲としてもこれほどの静謐と強度の論理にうらうちされたものはそう見つかるものではないし、またこれほどありふれていながら特異な楽譜は、数多くの古典を渉猟する現代音楽の中でもそう多くはないように思われるが、それはさしあたっての問題ではない。




では、やはり最近作でとりくんでいる微分音について口にすべきだろうか。それとも、やはり同楽派に属するマイケル・ピサロとの共作によるアンサンブルのための作曲作品についてだろうか。もしくは独奏による、その旋律の倍音チューニングでの演奏の光景についてであろうか。
あるいは、ラドゥ・マルファッティとの共演のさいに自作の多重旋律アンサンブルを演奏したあと、路上にでて各奏者と肩を組んでいたその姿であるかもしれない。おそらくは各奏者の音を相互トリガーとして、8人の合奏で倍音列のメロディがゆるやかに重ねられていくその音楽は、各声部の明瞭な輪郭とその合奏のなめらかさをもちつつ、全体として巨大な旋律をかたちづくりながらうつろい消失していった。その、あたかも自動生成するポリフォニーのごとき自己組織化をするプロセスは、おそらく「代表作」の一つというべきアンサンブル作曲作品の成果であり、当初「声とサインウェイブのためのソナタ」といわれたはずのタイトルは「カルテット/オクテット」として録音されているが、むしろその場にいたとき、これはまるでサティとマラルメの合体のようだと、はてしなく無限にループしながら組み合わせを自己組織的に孕んでいく、「腫物」と「書物」のありえなかった共作だと、精緻と撹乱が奇妙に融合した美のごとく開花していたと、声にしえなかった言葉を口にすべきだっただろうか。だが、これについても、それはまだ起きていない、それからの出来事のはなしである。
部屋はまだ薄暗い。




もしこの回想がいささかアカデミックに傾いているとしたら、それはこの部屋の薄暗さのせいかもしれない。実際、すでに迷路のような街路でひとしきり道をみうしない、とおりがかった交番でたずねた住宅街で空き家のような目的地にたどりつき、数段の階段をおりて開けた扉の奥は、ほとんど明りが点いていない。薄暗い室内の左手に図書棚、奥にギャラリー、右にカウンターがあり、図書棚の周辺にはイラストやマンガなどを載せた雑誌が積んである。なかにはトランプや花札らしいカードもいりまじり、どうも下北沢の名所をカードにした商品のようだ。だがそれが前景化することはなく、ときにかりそめの店主が演じるダダめいた身ぶり、演奏中にステージで鍋をしたり、寸劇にあわせて爆音のギターをかき鳴らすと言ったパタフィジックというべきかパタロジカルというべきか検討すらできない不条理な笑劇の風景は、いまこの室内ではフェルメールレンブラントの室内風景をおもわせる鬱蒼とした陰影に沈んでいる。



いや、そうではない、すでに部屋には明りがついている。
照明のついた室内では、奥のギャラリーをのぞいては、図書棚から酒瓶の陳列まで、すっかり見渡すことができる。壁際には本日のみ提供されるメニューの一覧が貼りだされ、アルコール類と軽食をしるした文字はどうやら、仮の店主が自筆したものであるらしい。
バーカウンターの上には灰皿があり、次回の展覧会を告知するちいさなポストカードがその隣に置いてある。その灰皿の上には、すでに火のついた煙草が乗せられている。それにあわせてグラスやボトルを卓上にすべらせる乾いた音がいくつか立つだろう。視界の外では、迷路のような街路のありさまについてや、その地図の抽象のされ方について、いくつかの声がひびいている。



音がない、と言うと明りを点けた部屋のなかでレコードを漁りはじめ、さいきん聴いているという一枚をとりだすと、それはどちらかというとトライバルな音楽で東欧で婚礼のさいなどで演奏されるものだと言う。ジプシーの要素がまじっていて、独特の弦楽に倍音が豊かに聴き取れる。変拍子がすばらしい、としばらく耳を傾けたあと、カウンターの奥でつぶやいている。



しばらくすると、ドアが音を立ててひらき、酒と煙草が大量に消費されはじめるだろう。すでにして酔客がふらりと訪問し、酒をつまみに酒場のいくつかについての話に興じては次の酒場をさがしに去っていくはずだ。そのあいだ、話しているものも耳を傾けているものもゆるやかに杯をすすり、流れている時間は音楽とはまったく関係のない、豊かで無秩序なかたちで過ぎていくことになるだろう。
そういえば、宴がはじまるのは、まだこれからなのだ。






***

注―
 本文で、通常のドラマタイズされた時間と分けて、よりアナーキーな時間の形態について記述をおこなっている(それに添えられたいくつかの固有名詞とその文脈から、ある程度その内実についての想像はされうると思われる)が、こうした音楽における時間形式の問題については本文中の分類で十分とはかならずしもおもわれるものではない。
 とりわけ、しばしば一般に、演奏される音が展開をかたちづくるものにたいして―これは言いかえれば過去・現在・未来というかたちで時間を分割/ドラマ化していく形式であるかもしれない―、より前後関係を保たず、ほぼ瞬間性のみで成立している音楽の時間形式があるようにおもわれる。この後者については、いってみれば4分34秒後にまで展開する偶発性に満ちた非構造的な時間ともことなり、厳密に瞬間しかない、そのような意味でドラマ化そのものを拒絶するような時間形式であるとおもわれる。いまはこのように抽象的なかたちでしか論述することができないが、本来はこうした時間についてはいまこの時点ではまだ書かれていない「5」において、そうした常に瞬間としてあらわれる現在時上の自画像という点からえがかれるはずである。
 また、ここであつかった音楽上の時間形式をめぐっては、多くの即興演奏を論じた書物である『貧しい音楽』の各章を参照のこと。この項は、そのような意味で同書の語りえなかった後日談と補遺としての試みであり、またそれとは別に、ある一つの室内風景と肖像画の試みでもある。



関連ホームページ http://www.japanimprov.com/tsugimoto/tsugimotoj/index.html