札幌国際芸術祭おぼえがき

かつて日本に滞在し、赤瀬川原平らとともに1960年代の日本の前衛芸術を展開した一人であるナムジュン・パイクは、1993年、ハンス・ハーケらとともにヴェネツィアビエンナーレ・ドイツ館に参加した。そこでハーケが作り出したのは、床一面が叩き壊され、壁に「GERMANIA」と文字が記された巨大な廃墟であり、その展示は金獅子賞を受賞するのみでなく、そのスペクタクル性や建築、政治(ヴェネツィアビエンナーレは元もとファシスト政権下で始まった、それを指摘する「政治+歴史的な正しさ」が込められている)、生と死、廃墟といった様々なテーマとモチーフで、おそらくは現在のアートシーンを決定付けるほどのインパクトを与えたといえよう。以降、現在まで、ビエンナーレトリエンナーレといえば、目を奪う巨大な大作や派手なパフォーマンス、社会批評や政治的立ち位置の思考と表明の展示のごとくと化している。


そうしたおぼろげなイメージを持って札幌を歩いていった時、実際に見たのは、部屋や建物に手が加えられたと言う展示ではそこからの連続性を感じながら、だが政治や廃墟や死の気配らは奪われた、生ける空間のごとくの景色だった。何より、スペクタクルにありがちな廃墟の組み合わせではなく、そのどれもが(少なくとも大半は)動いていて、写真に収まれば納得されるようなものはどこにもない。まして音の展示のごときの趣きは録音された音源をスピーカーから鳴らすという類のものではなく、作品の素材そのものが立てる響きが「音」であり、それゆえにすべては動いていなければならない。死のスペクタクル、固定し沈潜した景色など、ここには何処にもなかった、その理由だろう。


そう思って、再び1993年のヴェネツィアビエンナーレのパイクの展示を検索する。テレビのガラクタを野外の庭に並べ、他の色とりどりの布や服とともに笑っている作家の写真がたくさん出てくる。ハーケとともに、あるいはハーケの隣で、パイクは全く違ったジャンクと笑いを展示していた。もし仮にこの93年を現在の芸術祭に至る転機と位置づけるならば、これまで伏流水のようにもぐっていた別の線分があることに気づかされる。その線分は、それ自体が芸術祭の作品となっているモエレ沼のガラスのピラミッドの頂上部に置かれていたパイクのロボットにそのまま接続されるだろう(しかもそれは、いちど足を折った初号機ーまさに1993年に製作されたーを改良して、再び立ち上がったものなのだという)。
「芸術祭ってなんだ?」という札幌国際芸術祭のテーマについて、私たちはそれをハーケの方向から、つまり芸術祭が持っている様々なコンテクスト批評として、私たちなりの答えを口にすることもできる。だが実際に歩いて、見て聞いて感じたのはそうしたことではない。むしろ芸術祭なるものが持っている、もう一つのポテンシャルがあらわになっている姿であり、つまりは問いかけに作家たちが全力で提示した答えを、そこに見て取ったように思えた。