政治の謎

もうすぐ選挙。しかし当初の盛り上がりは失速したようで、なんとも議論が見えないのが残念だ。このページでは匿名による批判というのをしないようにしているので、いささかもギャグを書くつもりはないが、選挙はともかく、現在の小泉政権というのは謎だらけだ。たとえば、支持率70%超だったころに「KOIZUMI」というアイドル写真集を出してバスローブ姿を披露、「らいおんはーと」というメールマガジンをつくり、CMではX Japanというハードロックバンドの曲をかける。プレスリーのベスト盤を編集して自らジャケットでプレスリーと肩組。ものすごい笑顔でプレスリーと肩を組んでいる間に、端から見れば軍隊そのものの集団を戦地に派遣、少なくとも参戦国に協力していて、21世紀に入って「小さい政府」が改革だと訴えている。
これはまったく意味不明だ。たぶんあと5年ぐらいしたら、大学受験の問題に「小泉首相の出した本で、支持率上昇の要因になった本の題を答えなさい」とか出て、予備校とかでは「KOIZUMI」とすべて大文字であることを覚えなさいとか言われるのだろう。
知りたいのは政治学的にこの政権がどう分析されているかだ。もちろん経済や政界の再編という盛んに叫ばれていることを軸にみることもできるのだろうけれど、あの支持率はそれでは証明できないと思う。むしろ、はっきりとしない「改革」という言葉や、かなり複雑怪奇なイメージ戦略の方が背骨にあるように思える。いくつも相当強硬な法律が成立しているが、それらへの指摘は批判としてはあまり機能しないのではないか。いや、写真集をだす首相というのは、日本政治史上、どう位置づけられるのか気になって仕方がない。
とくに気になるのは、奇妙に空虚な言葉の流通具合だ。ひとつは「国民」で、もう一つは「改革」。しっかり調べたわけではないから間違っているかもしれないが、「国民」という言葉が劇的に使われるようになったのは、じつは自民党総裁選のころではなかったかと思う。麻生太郎とか出ていて、たしか橋本龍太郎はひたすら「私は剣道人ですから」と、剣道の話しかせず、そこに小泉がいた。そしてその討論は繰り返しテレビで流れたが、このときさかんに「国民はだれを選ぶか?」「国民の未来は?」と言われたと記憶している。当然だが、これはあくまで自民党員だけが参加できる選挙だった。そこに国民がいるはずもなかった。
それ以来、あたかも小泉首相が「国民」にえらばれたような錯覚が定着してしまったのではなかったか。外務大臣は威勢のいい女性議員、首相は写真集を出し、中高生から中年までに訴える、親しみやすく政治的では全くない空虚なイメージがいくつも出てきた。
一方で「改革」には、「小さい政府」というのは80年代の英米の反復だという「反復」や遅れの意識がまったくないし、それが90年代に一度ひっくり返されて今に至るという議論も全然されていない。変わること、壊すことがメインで、どう変えるかはほとんど言われない。
いまも赤いカーテンを背後に「既得権益を守って改革になりますか。郵政民営化はすべての改革につながる」と言っているけれど、この文が論理的に接続されていないのもさりながら、僕の目にはどうにもツインピークスとかブルーベルベットの赤い部屋にしか見えない。
ひょっとしたらもう日本はツインピークスの世界になっているのかもしれない。どこかで小さな人影が踊り狂うだけで、歴史も政治もなく、ぼんやりした脅威と暴力の気配ばかりで、あとはなにもわからない。