歴史を書くという作業

先日、旅行から帰ってきたばかりだ。いろいろな人と会い、あれこれ話を聞いてなかなかに楽しかった。ただ睡眠不足でかなり消耗。体が枯れたような感触になる。
ところで「ユリイカ」の特集「オタクvsサブカル」を立ち読みした。オタクもサブカルも、いずれの括りもあまり有効性を感じないし、そのような問題提起を立てることで何が見えるのか、タイトルだけでは今ひとつわからなかったので見ていなかったのだ。そう思いつつも、いくつかの対談を見てみると、けっこう面白かった。
そのテーマの一つは、岸野雄一氏やばるぼら氏による、歴史の再構築という問題になるだろう。これは、こんどばるぼら氏と対談するらしい大谷能生の、菊地成孔との共著を貫く主題でもある。彼らの作業は、具体的な事実を新たに発掘することよりも、ジャズや大衆音楽という文化において、これまでの伝記的事実を再構成し、二〇世紀中葉から後半の歴史を構築することに主眼が置かれているように思う。そしてこれはかなり興味深い試みだ。
実際に史料を探し、アカデミックという名の下に歴史を書こうとしている側にすれば、これらに対して、ややナイーブに過ぎる歴史への渇望を見てとれるようにも思う。にもかかわらず、そうしたナイーブなまでの歴史=物語の必要に、個人的には深く共感する。他方で、こちらは内容についてだが、大谷+菊地の描く歴史が、かなり二〇世紀に特化しすぎているような印象も受ける。その視野は中世から説き起こしさえするのだが、その長いスパンにおいて変化の極が二度も二〇世紀に集中しているのは、やや歴史感覚に歪みがあるのではないか、と思わざるを得ない。しかし、そのうえでなお興味深く、また共感するのは、その試みが二〇世紀中葉〜後半という、これまでほとんど白紙のまま放置されてきた領域に切り込もうとしているからにほかならない。
実際、「現代史」という名の下、二〇世紀をある系のもとに捉える試みは、まだ始まったばかりではないかと思われる。それはひとつには、歴史を語るにはあまりに話者との距離が近すぎ、また二度の大戦というカタストロフを前に、そこに注視せざるをえなかったという特殊な遠近感があったゆえだろう。また「冷戦」という名の下で、なにかが分かってしまったような錯覚もあるだろう。歴史として語るには、あまりに近すぎたのかもしれない。
しかしそれがもたらしたのが「歴史の宙吊り」とか「ポストモダン」だとして、その空虚感はかなり深刻だと思う。大谷+菊地でも、あるいは「ユリイカ」での大谷+菊地+大友の鼎談でも話題になっていたけれど、いわばアーカイブ化というのがあって、これはこの二〇〇五年特有のトピックとして後日には忘れ去られてしまうのかもしれないが、近年進行していることの一つは、歴史を語るはずの歴史学自体がアーカイブ化され、無歴史化されているように思われるからだ。実際、「史学雑誌」という基本となる学術雑誌が毎年定期的に出す「回顧と展望」特集号において、「史学理論」の項目はますます短くなっている。代わりに掲載されるのは膨大なまでの個別研究だ。ましていわゆる史学史的な試みは近年、かなり減少し、現在の動向の歴史的位置を自覚するのは相当に困難になりつつあるといわねばならないだろう。
他方で、ネット上のアーカイブ化も進行していて、実のところ、過去百年分くらいの歴史研究論文については、前後の文脈なく検索することが今や可能だ。アーカイブの特徴の一つがランダム・アクセスだとして、場合によれば、いくつものアーカイブの中から歴史を選りすぐり、それを編み出すはずの歴史学それ自体が、膨大な情報のひとつとしてランダム・アクセスの対象となってしまい、あげくに時間の厚みを失い、果てのない細分化の中で無目的的に産出され続けることになるだろう。いいかえれば、自閉的な空間の中で、ただアーカイブを増大させるためだけに歴史を掘り起こす、ということになりかねない。アーカイブをつくることが歴史の語りの重要な要素であることは前提とした上で、際限のない百科全書をつくることは、どこまで保つのだろうか。ブバールとペキシュのごとき試みの空虚さに気づいたとき、ひょっとすると突如とした反転が、場合によっては歴史の放棄さえも起こるような気もする。そしてそれはすでに起きているような気さえする。
歴史の神はクリオとされる。だが歴史が見つめ扱うのは膨大な時間であり、誰をも襲う呵責ない時の流れ、すなわちクロノス=サトゥルヌスの営みだろう。ゼウスの父にしてローマの神であり、祭りの間は奴隷も誰もかも解放して平等にあつかい、そして自分が生んだ子供たちを自らバリバリと喰い殺してしまう時間の神。だがかつてゼウスに放逐されたように、現代のサトゥルヌスもまたどこかへ葬られてしまったとおもわれる。いや、彼が子供を喰い殺していても、もはやその姿は不可視に近づいているのではないか。二一世紀のサトゥルヌスは、どのような姿をとるのだろうか。
そこであらためて大きな物語を仮構することの意味は、決して小さくないと思う。そして歴史=物語を、多少なりとも捏造を含む「偽史」となることを承知で進める作業に、深く共感せざるを得ない。また、その際、実はとても興味があるのは、その物語の取るかたちだ。さいきん、「パブリック・ヒストリー」という学術雑誌にブルーワーという有名な研究者による、叙述にかんする論文の翻訳が掲載されていて、そこではネオリアスモなどをふくめた映画や文学からの参照も多くされていた。英語だが「History Workshop Journal」でも同様の試みがここ数年、進められている。どうにも歴史の「語り」が、弁証法やベートベンのようなダイナミズムに偏りがちに思われるなか、まさにポストモダン音響派を経た叙述のかたちは、どのようなものになりうるのか。そこには語られる内容と同じほどの重要性と実験の余地が見出されると思う。