歴史研究と教育、もうひとつの歴史教科書

先日、旅行に行ってきた。旅行といっても、実は所属しているゼミの合宿にほかならない。二泊三日で大半がゼミ、という時間の過ごし方は、部活の合宿に比較すると薄いという感想も聞いたし、他方で眠くなるほど長い、というかんじでもあった。
ただ、その合宿を振り返ると、あれやこれやと考えることも多い。僕は一応は学生だけど、大学生というには年を取りすぎ、とりあえずの就職のあてもなく、あと少しで二〇代を終えようとしているという中途半端な社会的位置にいて、そんなこんなで研究という名目で時間を過ごしている。しかし、その研究にどんな意味があるのか、みたいな原理論的なことを、こういう場にいると思ったりもする。
論文を書いたり研究会で発表したり、というのは、たしかに目的がある。学問の良心に従い、真理を追究するとか、大げさに言えばそういうことだろう。しかし、いまの自分にできることはきわめて少ない。まして、これまでも書いてきたように、いかにも歴史意識の希薄な、そして今なお薄れ続けているような社会で歴史などやっていれば、閉じた自分を感じざるを得ないところだ。
幸い、自分は自分のことだけに閉じずに、多少なりとも学部のゼミを通じて、学部生と日常的に交流することができている。といってもその数は三〇人とか五〇人とかの規模で、それほど多くはない。べつに多くのひとに影響力をもちたいとか、そういう動機は一切ないけれど、はたして彼ら彼女らに、すこしでも意味のあることを与える・与えられるという関係にあるかどうか、そう思うとすこし寂しくなったりもする。
ただし、個々の研究というのが象牙の塔で進められていると考えられているようならば、それはまったくちがう。数年前から出てきた「教科書問題」というのがあるが、教科書こそは、最新の研究を盛り込みつつ、それをわかりやすく書き直したものであって、かなりの頻度で更新されているのだ。そして、それを証明するあたらしい歴史教科書が、実は昨年、出版されている。これをもうひとつの教科書問題といってもいいだろう、というくらいの事件だと思うのだが、いまのところ、それを騒ぐ記事には出会ったことがない。
・・・ここまで書いて、突然その教科書の出版社を失念してしまった。本もどこかへ埋まったまま、出てくる気配がない・・・。たぶん、東京書籍、だったと思う、のだが。
その世界史の教科書は、なんと驚くべきことにウォーラーステインの「世界システム論」を叙述の基本においている。たぶん、多くの人は「世界システム論」がいかなる理論であるのか、聞いたこともないのではないだろうか。むろん、それは決していたずらなものではなく、ウォーラーステインの日本への紹介者であり、自身が一流の歴史家である川北稔によって監修され執筆されたものである。
ウォーラーステインの「近代世界システム」による近代資本主義による世界の構造化を下敷きにした叙述は、それまで、というか現在の我々が慣れ親しんできた、一国ごとの内発的な発展、それも政治的(これは議会制民主主義に結実する)経済的(これは資本主義に結実する)発展の、各国レースのように書かれてきた歴史教科書とは、根本のところでまったく異なっている。いささかジャーゴンめいた言い方を使えば、大塚久雄による戦後史学と、旧京都学派による世界資本主義論が、アカデミズムを離れて高校の歴史教科書というレベルにおいて、遂に拮抗したとみるべきかもしれない。
これは、じつは高校生の教育という問題において、「歴史教科書をつくる会」の問題と同程度以上の地殻変動を引き起こすのではないかと想像する。学力低下という、いつの世も言われていて、言われたことを忘れてしまったような問題とはまったく次元がちがうだろう。なにしろ、一方では各国の発展を中心に世界を把握する人々と、他方では世界があるシステムの中で同時に変容してゆくと理解する人々にわかれてしまうのだ。もっといえば、一方では政治経済発展(近代への革命)を中心にし、他方では根本に資本主義をすえた、しかも近代資本主義への批判をもっている違い、というべきなのかもしれない。
理屈走った出来の悪い青臭いガキからすれば、個人的にはこの新しい教科書は大変おもしろい試みだと思う。ことなる歴史観をもった教科書が並列され、教育の現場において双方を付き合わせながらそれを理解していく、というのは大事なことだと素朴に思うからだ。それに、世界システム論やそれを踏み台にした川北氏の成果によって西洋史学はかなりの前進をみたのであってみれば、それを高校の教育に生かすことも必要だろう。無責任に言えば、もっとどんどんやってほしいくらいだ。有斐閣西洋史の各国別概説があって、『概説フランス史』は、いっさいの事件史や時間軸にそった王朝史を破棄して、「食の歴史」とか項目別にやっていて、アナール的な社会史に満ち満ちたその本は、概説書としてはまったく意味をなしていないと思いながら、しかし魅力的だったことは、読んだ全員が思っただろう。
しかし、一方でそれがかなりの混乱を引き起こす(すでに引き起こしている?)こともまちがいないと思う。単純にいって、大学入試に「世界システム論とは何か」みたいな問題が出たりするのだろう。教科書がちがえばそれに答えられない、というのは、それだけで大変なことだと思う。それに高校の先生方も、まずはわけがわからないのではないだろうか。
そしてこれは二年後、大学の授業にも反映するだろう。歴史学ならまだ良い。いや、それでも突然、卒論で「世界システム論をやりたい」という人が出てきたら、なじんでいない人は困ると思う。しかしそれ以上に、社会学政治学や経済学の講義において、一国の内発的な発展や、もっと単純に「ブルジョワ革命」などの概念で発展史的に捉えている授業は、かなりの混乱に陥るのではないかと想像する。ある学生にとっては、世界システム論が前提なのだ。
この新たな世界史教科書の登場を、学界内の東西派閥の視点から見ることは簡単だ。しかしさらに青臭いガキとしては、そんなことに囚われている次元はもう超えてしまったと思う。学閥に従ってその教科書で勉強してきた学生たちを煙たがったり、批判するのはもう無意味だろうし、できたとしてそれが生産的とも思われない。
その教科書を使っているのはいま、高校二年生だ。再来年に、彼らは大学にやってくる。そしてこちらの方が、本当の歴史教科書問題だと思うのだが。