過剰で遅い刺激:大友良英アジアン・ミーティング最終日

25日日曜日の夜、新宿ピットインに行った。アジアン・ミーティング最終日、ONJOスペシャル。あれから3日が経ったけど、めずらしくネットを探してみても、この日のことについて書かれたものが余りないような気がする。ミクシィとかは検索していないけれど。ネット社会ってなんだろう?この夏休み(学生は夏休みが長い)の間に、3回か4回、ライブ会場に足を運んだ。僕は前も書いたようにずっとCDばかりを聴いてきた頭でっかちで、でもやっと現場に行くことで、すこしちがう印象を得たような気がする。そして最後にONJO。なけなしの金を払って、すごく楽しみだった。
それで、感想は人それぞれちがうと思う。それは単なる批判ではなくて、参加した演奏者の人数がかなり多く、見に行った人や興味がある人も、それぞれ関心がちがうだろうし、ゆえに思うところも全然ちがうと思うからだ。僕は素人で、ただしポップスだけを聞いている人に比べればかなりCDを買っていて、しかし現場に行ったことがほとんどない、という条件にある。あと、ONJQからずっと、これは単に音楽ファンということだけじゃなくて、大きなストーリーとミクロな事態との絡み合い方、ということに注目してきた。その理由は前にも少し書いたので省くけれど、だから他のライブを見たときの感想とは少し意味合いがちがうだろう。このへんは、文字情報に頼りがちな頭でっかちの欠点かもしれない。
で、行ってみた。台風一過で会場は満員。立ち見。僕は会場少し前にちかくのドトールに行き、その日買ったジーン・ウルフの「新しい太陽の書」(なぜかいきなり復刊された)を読んでいて、するとそこにたぶんカヒミ・カリィらしき女性がきてたりしていた。そんなこんなで行ったら満員だった。煙草を吸うため、バーカウンターのところで一番後ろにいて、そして演奏者が登場した。あっさり始まった。
最初、演奏者が20人ちかくステージにいた。とてもあっさり始まったので全然実感がなかったが、単純にかんがえて、これはすごい人数だ。一人一人紹介されたが、あまりに多いので最初ぽかんとしていた。すると、ガガガガという音が鳴り始めて、つづいていくつかの電子音が静かに交錯し始めた。たぶん最前列の、来日の方々が発していたのだろうけれど後ろにいて手は見えない。そしてゆっくりゆっくり即興のような演奏が始まった。本当にチューブみたいな楽器でプシューといっていて、目から鱗だった。オプトロンがノイズではなくて低音を出していて、そんなこともできるんだとびっくり。ユリイカだった。CDでは(たぶん)編集されて付け加えられただろう部分が、ライブで進められていた。それもゆっくりと進められていた。ひょっとしたら自己紹介的な部分もあったのかもしれない。
そこに(たしか)ギターと共に、カヒミ・カリィが歌い出した。はじめてだったので、これもやや唖然とした。ウィスパー・ボイスとか変な表現がされているけど、本当に歌っているのか喋っているのか囁いているのか、中間的な歌い方だ。一瞬、浮いているのかと思ったけど、歌自体にかなりの異物感と儚さがあって独特の引き込まれ方(声が小さいような気がして前のめりになりそうになった)をされる。そこからゆったりとしたメロディに移行。演奏者全員がハーモニーでもユニゾンでもないけれど重なり合いながら演奏を始めていった。
そしてこのあたりから僕の記憶はなくなってしまう。覚えているのは、あのメロディが、時にブギャとかいったりヒュイーンとかいったり変形されながら、塗り重ねられるようにゆったりと演奏されていたことと、その合間に、というよりはその中で、ギターからピアノから電子楽器から効果音(?イトケンが紙を丸めたりしていた・・・のは、この時か?)がつぎつぎに色々な音を出していたことだけ。それが当たり前のように進行していた。当たり前のようにあっさりと始められたので、なにか当然のことのように思われるが、全然あたりまえじゃないと思う。
とにかく人数が多かった。それは過剰なくらいだった。けれど、全然、過剰に聞こえなかったのだった。これは僕の耳がおかしいのかもしれない。けれどもマッスな量塊が迫ってくるとか、音のシーツでくるまれるとか、巨大な構造物が立ち上がるというような圧迫感はなかったように思う。むしろ薄い(?)というか、軽い(?)というか、それぞれの音ははっきりと聞き分けられたし、聞こえてきた。しかしその数はあまりに多かった。微弱な電子音からガサガサいうノイズから、メロディを吹くサックスやトランペットから、次々に色々な組み合わせがおこなわれて、しかもいくつも同時に進んでいた。ステージ上の演奏者の方々をすばやく見回し続けていたように記憶している。その音はどれも圧迫感や聴く側を攻撃するようなものではなく、とてもある意味で静かだったけれど、その小さい変化が膨大かつ急速に進められていた。しかもカオティックな取り留めの無さもなかった。この過剰さはなんだったのだろうか。とても表現できない、薄くて静かでゆったりも素早くもしている過剰さで、しかも繰り返すけど、あたりまえのように進行していた。
こんなにくどく書くのは、この日の公演がこうした、ちょっと信じられないような過剰さに支配されていたように思うからで、あげくほとんど何もおぼえていないに等しい。もちろん、実はONJOを初めて見る僕には、水谷浩章が想像以上に大柄で、演奏中に暴力的な雰囲気なことにびっくりしたり、芳垣安洋がすごくなげやりな感じでもの凄いリズムを出しているのに興奮したりとか、青木タイセイが長いフエを持って吹いているのを見てなんか面白いとか思ったりしたけれど、それも全部忘れてしまった。なにかの情報を運んでいるわけではないけれど、すごい情報量で、それをあれこれ聴いているうちに何も覚えていないことに気づいた。
それがどれだけ意図されていたのかはわからないけど、その過剰さを楽しむように演奏は引き延ばされていて、とてもゆっくりゆっくりテンションがあがっていった。ひょっとしたら40分以上もかかったのかもしれないけれど、時間感覚ももうなかったので分からない。ある意味でぼけっと聴いていた。そして最後はコア・アノードみたいな状態に突入した。音量があがったけど、全員がちがうことをやっていて、まとまっていて、過剰なことは全くかわらなかった。サイン波か何かの電子音が、一番後ろにいたのになぜか耳元でバリバリ鳴り、津上研太が強くメロディを吹いていたのがかっこよかった。バチン、と終わったけれども、このときやっと、本当になにも覚えていないことに気づいた。
だからあとはほとんど覚えていない。2曲目からは、さらに15人近い管弦楽団が加わり、イトケンが指揮に立って、大友良英のステージへの指揮と並行してさらに大変なことになった。二人が交互に指揮するようにも、同時に指揮するようにも、さらに演奏者がどちらの指揮に合わせるかさえもが入れ替わって、情報量はあっという間に飽和どころの話を超えた。新曲という2曲目はたしかメロディが最初はあって、しかもかなり腰を振れる部分があって(最後尾で体を揺らしていたら、前が全然うごかないので、あれ?とか思ったけど、個人的にはかなり良い感じになって、そうしたら隣にいた黒人の方2人が歓声をあげていた)それがすごい良くて、しかしそうは簡単にいかないよという感じで管弦楽団がブギョ〜とか入ってきてその都度びっくりし、またリズムが、またブギョ〜、というような人力コラージュでかなり盛り上がった。
3曲目はドルフィーの曲で、本当に美しかった。和音の分析とか記述ができないのがもどかしいけれど、年始の演奏も聴いていないからそれがどういうものかも分からないのだけれど、たぶん管弦楽がくわわってかなり分厚いというか、ウネウネしている曲がさらに幾重にも波打つように強烈に揺らいでいた。なんというか本当にちょっと圧倒されて、ただドルフィーの取り留めのない曲のせいか、これこそまったく記憶で再現できない。このバージョンもぜひまた聴きたい。
4曲目はCDに入っていた「真夜中の」という曲で、また指揮者が二人、しかもその総勢30人強をまぜこぜにしての強力な組み合わせだった。なんというか、ここまで来ると、もうONJOとかどうでもよかった。手で合図をしてそれに合わせて演奏(即興?)が行われる、というのは前に一度だけ見たコブラによく似ていたけれど、ゲームピースと言うよりは、指揮者二人によるターンテーブルの即興の人力バージョンというか、二人の即興のなかでさらに演奏者が即興しているという、ミクロな即興を幾重にもかさねたようなシステムができていて、しかも一定度の曲の枠組みも用意されていたように思う。そしてまるで大人数の生演奏のコラージュを楽しむように、隅々まで味わえるように、これでもかとドン!と一拍、即興、グチャグチャ、ドン!というかんじで(なんだかよくわからないけれど)、ユリイカとは違った形でいくつもの組み合わせがあり、カヒミ・カリィビブラフォンの共演とかうっとりしたり、あげくに最後、オプトロンとドラムスのデュオまでに行き着き、なにか茫然としていたら終わった。これもまた、ほとんど覚えていない。
長々と書いたけれど、一つには僕が頭でっかちで長文を苦にしないと言うのもあるけど、もう一つはとにかくそのある種の過剰さを感じて、頭がほとんど真っ白になった体験を記憶のために書いておこうと思った。ミニマルでもあったけどそのまま過剰な何かを聴いたような気がする。なんか即興とかシステムとか書いたけれど、演奏それぞれが凄かったのは最後のアンコールで数分みせてくれた来日の方々の即興でも充分たのしかった。いや、全体として演奏はうっとり茫然と聴いていて、大編成でとても面白かった。だから、とりあえずの感想としてそれ以外の、全体像を覚えていないことを中心に残した。で、それは茫然としていたような当初から、今頃になって徐々に刺激的なものを感じているんだけど、その受けての勝手な思いこみや刺激がどんなものかは、まだわからない。