追記:音響など

先日新宿のツタヤにいったら、すごい品揃えで驚いた。「北国の帝王」がある、「ゴダールのマリア」が、「東風」が、パゾリーニの見かけないビデオもある。CDもすごい。想い出波止場があり、SOUPがあり、青木タイセイのソロまである・・・残念ながら、明日あるという青木タイセイのソロライブには行けないけれど、先日のONJOでは独特の存在感があって魅力的だった。今回は残念だけど、ぜひ一度拝聴したい。ともあれ、新宿の文化というのは何なんだろうか。
それはさておき、一昨日あまりに長いのでカットした部分を追記しておく。これまでの文章をみると僕がまるで大友良英の追っかけのように見えるだろうが、実はそうではない。本当に追っかけならば、この夏、ほぼ連日どこかへ行くことになっただろう。
むしろそのきっかけは、「バ  ング  ント」展で曲を聴いたことだった。一昨日も書いたように、あそこで演奏された曲は、ぶつ切りでほとんど聞こえなかったけれども、耳に入ってきた部分はとても美しかった。サイン波と笙の和音だけだったが、それらがゆるやかに変化してゆく豊かな音の響きは、まさに教会で聴く宗教音楽のように素直に「美しい」と呟いてしまうようなものだった。ほとんど演奏されたことがないというが、もっとあちこちで演奏されても良いものだと思うし、そうすれば新しいファンもつくのではと思うくらいだ。僕は再演をみていないけれど、きっとすごいものだったのだろうと想像する。というよりも実のところ、むしろその美しさにやや危険なものを、響きの美しさに傾きすぎた、あるいは響きのなかに不可視のなにかを見出す審美性のようなものを感じたほどだった。これはあくまで個人的な感想だけれども、響きへのいわば求心性と宗教性を感じたといってもよいだろう。
(これはまったく個人的な推測だけれども、ジョン・ゾーンの「IAO」は、ISOのような音響の即興に対する批判的なコメンタリーを含んだ作品ではないかと思う。エレクトロニカ風に始まり、民族音楽的な太鼓やオルガン、女声コーラスと続くあの作品は、いわば(エセ)宗教音楽を集めたものであり、全体を獣の数字666=IAOという架空の宗教でまとめたものではないかと思う。民族音楽は民俗宗教音楽であり、コーラスはいうまでもなく、デスメタルは俗っぽい悪魔信仰を意味しているのではないだろうか。そうするとエレクトロニカもまた宗教として捉えられていて、そこではおそらく上述の音の響きへの審美主義というか、「いま・ここ」で立ち上がる不定型な音の反響に対して、ナイーブなまでに心を開いて耳を澄ます、という姿勢が持つフェティシズムすなわち宗教性が問われていると思われる。一貫してゴダールに傾倒してきたことを隠さないゾーンが、「JLG/JLG」で頂点にいたる映画=光と見なしてカトリシズムに同化したゴダールの歩みと、音響派の響きへの傾倒との間に、関連を見出した可能性もあるだろう。ただし、もしこの推測があたっているとして、そこでわざわざ獣の数字などを持ち出すバカっぽさには唖然とするばかりだし、ユダヤ回帰を突き抜けて、音楽全てをあらためて宗教音楽として捉え直そうとする野心もあるように思えて、これも唖然とする。当たっているのかわからないし、もう評論も出ているのかもしれないから、全く確かではないけれども。佐々木敦氏など、何か言っているのだろうか?)
だから、その後の展開を知りたくて「 ミ ヨ」のギターバージョンを含むコア・アノードを聴きにいったのだった。そして、幸いにも(?)、コア・アノードの前半で演奏されたギターバージョンは、ただ聴くと徹底したギターの弾き間違いの集積のような、宗教性とは無縁のものだった。そのあと、くせになっていくつかのライブに行ってみた。驚いたのはそのどれもかなり印象が異なるということだった。勿論、ある意味で一貫性はあるかもしれないけれど、連日多忙な作業をこなしながら、あれほど方向性や色合いの異なる仕事を繰り広げることに対して、本当に頭が下がる思いだ。今度ダウトミュージックから出るらしい新譜もおそらく全然違うのだろう。あと、いま自分の作業を再開しているけれど、それを進めながらようやくONJOで見た「真夜中」の面白さのようなものを感じる。CDでは聞き分けにくいけれど、単にブロック状のものを積み上げるのではなく、微細なところまで視線を行き渡らせながら、それらを組み合わせたり交配させたり、並行的に操作して次々に新たな展開を繰り出していても、前進してゆく力と大きなストーリーを維持させる。それもかなり長時間保つことができる(みたのはたぶん30から40分ちかくもあっただろう。その時間にふさわしい人数も用意されていた)というのは、ぼんやりとイメージできても形にするのがなかなか難しい(単にブロックを配置するだけならまだ簡単だけど、そこを貫いてストーリーまで作るのが特に難しいと思う)。もちろんそれだけを考えているわけではないけれど、ある種の間接的な刺激を今頃になって受けているような気がする。ミクロなところから大きな方向へと捉え返すのは、たぶん多くの人が想像するよりかなり困難な作業だと思う。
この夏は、これらのライブとピンチョンを読んだことが記憶しておくべき事柄だろう。あと、こうした中途半端なエッセーか日記を書いてみて、あらためてインターネットが即効性を重視したメディアであることを体感した。裏を返せば、なかなか言語化しにくい事柄についてはほとんど書かれることがないらしいということでもある。即座に口にしたいことを即座に口にできるメディア、というのはポストモダンで充分に批判されたはずの、誰もが同じことを言ってしまい、その言語ばかりが流通するという事態を加速させているのだろうか。ここに書かれた文章も、おそらく誰もが口にすることと大差ないにちがいない。時間と情報と、それらから取り残された身体の問題。これもまた紋切り型だ。
ともあれ、これまでの文章に出てきた人々(政治家以外)に、僕はほとんど無条件で感謝を捧げたい。きわめて私的で公的でもある奇妙な文章に書くことができるのは、その感謝の念のやや不鮮明な表現をのぞいて、なにがあるのだろうか。