とくに題なし

テキストはすべからく物語になるとずっと言われてきた。いまの作業もまったく同じだ。人によっては感覚が違うのだろうけれど、ノンフィクションの史料を扱っているとはいえ、それらを読み、眺め、調べ、メモを取り、ノートを作り、並び替え、情報を組織し配列して、曲がりくねりながらも一つのストーリーをつくる。書き、書き直し、ある箇所を膨らまし、ある箇所を削り、ある箇所を謎として提示する。始まりがあって終わりがある。確固たる記述を目指すのだから、書く内容は大きく動かせない。他の人の意見を読み、聞き、多くの場合はその枠組みの中でしか書くことはできない。そのなかで、真実だと思うことを書き、そう思うことに向けて記述を仕向けてゆく。その具体的な中身については、ここには載せない。載せたら、なんでわざわざ紙に向かっているのか分からなくなるからだが、そうした中身以外の、書き方やストーリーの組み立て方にも注意が向く。真実に100%到達することはないのかもしれないが、そこに近づいていかなければならない。職業意識をもってフィクションを書いたことがないから分からないが、おそらく小説や詩や映画や音楽や絵画でも、何らかの意味で「真実らしさ」に向けて完成度をあげていこうと苦闘するのだろう。
そうして書くことは夢中になることでもあり、あまりに破廉恥でもある。いってみれば、恥ずかしい。書くことが恥ずかしい。おそらく文章を書くというのは根本的に恥ずかしいことなのだろう。とうぜんこの文章も破廉恥であり、この文章は破廉恥きわまりないものだ。
だから、よく書店で平積みになっている「××が語らない歴史」「××が教えない歴史」という題の本をみると驚かずにいられない。語る、というのはこれほど簡単なことなのだろうか。書けることが書けてしまう、語れることが語れてしまう。間違っているかもしれないという、錯誤の怖れもなくそれができてしまう。そのことに驚く。
自分が狂っているのかもしれないという恐怖もなく自分なりの歴史が語られてしまう。これまで公に語られていなかったことを引き合いに出せば、すっかり世界が変わってしまうのだろうか。そうかもしれない。しかし、そうでないかもしれないのだ。得意になって語っていることが、実は隣の人間が語っているのとおなじ内容かもしれない。誰もが知っているから、語られていないだけかもしれない。そしてそこに真実らしさがないから、わからないとしか言えないから、「わからないことはわからない」としか語られていないのかもしれない。他の人たちがこれまで書き、語ってきた物語の蓄積は、そうそう簡単にうち破れるほど優しいものではないし、だからこそ何度も繰り返し史料に立ち返り、書き直し、読み直し、書き直さなければならない。
はたして物語はそう易々と語られるのだろうか。あるいは物語はそう簡単に変えられるのだろうか?錯乱しているのは、その語られようとする物語のほうではないのか?そして、それは、そう簡単に教えられるのか?そう簡単に教えられるほど、物語に、歴史に、安心感があるのだろうか?
他人の生死を自分の価値観で書き、裁き、判断することほど、破廉恥で厚顔無恥で、安心感からほど遠いところにあるものがあるのだろうか。そしてその歴史におもわず共感してしまったと書くことほど、距離感を失った錯乱があるのだろうか。ノスタルジーとモノローグは、あらゆる錯誤をなにもかも、すべて許してくれる魔法の杖なのだろうか。
そんな、これ自体があまりに紋切り型の考えを繰り返す。たぶん、こんな紋切り型からまた始めるしかないのではないかとおもう。