そんなときに

そんなことを考えたり忘れたりしつつ、「東風」をビデオで見た。映画作品をビデオで見て、その感想をあたりまえのように書く、ということ自体も、また怖ろしく恥知らずだが・・・とりあえずあっけにとられた。
どうも、ただ友達といっしょに山にピクニックに行き、西部劇ごっこをしているところを撮影して、あとは編集で画用紙になんか書いて終わり、のようにみえる、というか、そうとしか見えない、のだが・・・すさまじい。なにかができている。僕がここで書かずとも、すでに多くの文章がそれに費やされているのだろう。それとは別に、唐突に登場する町中の女性の映像で、若い女性のスカートの丈が異様に短いのがやたらと気になる。政治映画ではないのか・・・。そういえば、「映画史」をはじめてみたときも、室内でゴダール本人が、なぜか上半身裸にサンバイザーをつけて、たしか葉巻をくわえて編集台にむかっている映像がやたらと印象に残った。そんな男が、夢の中で花をみつけたりするのが「映画史」なのだろうか?どう発想すれば、上半身裸でサンバイザーを付けている自分をカメラで撮り、壮大な音楽と古典的な映画の合間にその映像を割り込ませたりできるのだろうか?ひょっとしてあの格好が日常なのか?サンバイザーなど、いまどき日本ではほとんど見ないものだろう。謎が多すぎて、困る。
どうやら、物語は簡単にできてしまうようだ。たぶん、それでいいのだろう。即興演奏をあれこれ見に行ったりCDを買ったりするのも、たぶんその場であっけなく何かができてしまうのに惹かれるからだ。むしろ問題なのは、誰もがおなじ物語を語ることであり、いわば一つの物語の圧制にどう対処するかなのだろう。そしてそこで微力ながら試行錯誤しなければならないのだろう。