海市展

その合間に、動機がよく分からないまま、適当に置いてあったICC「海市展」のカタログを再読。ICCが今後どうなるのか、あるいはこの最初の企画展が計画当初の意図からして成功だったのかもよく分からないけれど、異様なまでの分厚さの中で、そうそうたる論者の無闇にラディカルな欲望が、何も生み出さないままドキュメントになっているようなこの本は、それ自体でかなり刺激的なものだと思う。そもそもユートピアのあり方をめぐっては、すれ違いのせいでほとんど論じられていないし、リニア/ノンリニア、群島モデル、情報網というもう一つの制度、そして計画と切断といった問題提起も、形になったようで、結局は放置されたままにみえる。
むしろ見えるのは連歌というよりは破壊の繰り返しであって、そうして入り乱れる欲望が、立ち上がろうとする建築/都市を抑圧し変形させてゆくプロセスの方だ。いいかえれば、都市=建築という容器と、そこに住まおうとする人々の欲望というか社会的な何かが衝突し、両方が歪められてゆく推移が(過激化された形で)みえるように思う。プロトタイプはあまりにも魅力的だけれども、その魅力はユートピアを、「建築」という入れ物だけに還元しようとするトリックにもあるように思われる、といいかえてもいいかもしれない。「建築」が立ち上がっても、実はそれは社会が成立したわけではないように思われるからだ。同じ建物が建っても、そのなかに産まれる社会は、かならずしも同じではない。都市がツリーではないのは、経済や政治もふくむ都市社会がツリーではないからで、計画された建築としての「都市」は、いやでもツリー状になってしまうのではなかろうか。そのツリーに、あるいはテクノロジーだけでできた「都市」に、市民が反逆した、そのプロセスが記録されているようにも見える(実際、法律や主権、軍備の問題についてはほとんど触れられていないように思われる。言説や表象の脱構築が主眼にあるとして、それらに触れられていないのは、やはりやや偏りがあり、現場に奇妙な熱気があったのだろうとも思わされる)。
しかしそこに、あえて「建築」を持ってきて脅迫的に「計画」をもちだす、もちだすことで切断を強いる、磯崎新のその手つきがきわめて魅力的なのもまちがいないし、そうした行為にこそ政治もあるのだろうと思う。ひょっとしたら、一連の過程の中でそうした切断が何度か乱入すれば、さらに刺激的なものになりえたのかもしれない。ユートピアもまたすぐれて政治的な課題なのだろう。僕の読み方は、例によっていささか社会的に引きつけすぎ、リテラルに企画を受け取りすぎているのかもしれない。いずれにせよ個人的には、このカタログはそうしたシミュレーションの記録であると思うし、そうした読み方以外にも様々な刺激を与えうる本であるとも思い、ゆえにこうした企画はもっともっと、粘り強く何度も続けて欲しいと願う。