つづき

当たり前のことを確認していかないと、なかなか進めない。こんなことに拘泥しているのは、やはり風邪のせいなのか、それとも単に頭が悪いだけなのだろうか・・・?
そう、語り、物語において話者は、常に暴力的に切り込んでいる。ある事柄を暴力的に改竄し、並べ替え、言い落とし、誇張し、歪め、視点を複数に切り分け、あらためてリニアに置き直す。そこでは犯罪的なまでの、目に見えなかったりあからさまだったりする暴力がおこなわれる。なにかを歪める。書く、という行為自体が暴力的なのかもしれない。破廉恥である以前に、それは暴力だ。ネットで際限ない批判と罵倒があるのは、掲示板が書くということの孕む暴力の、瞬発的な応酬の縮図でもあるという理由もあるのかもしれない。
ある物語に着手し、書き始めるとき、そこで起こる暴力は、しかし初めてのものではないはずだ。なぜならそれは既に誰かがどこかで語っていることの繰り返しだから。誰かが先に語っている。すべてはそのちょっと変わった反復、修正、書き直し語り直しになる。それは歴史だろうが変わらない。ある事件について、誰が最初に語ったのか?最も古くに作成された文書は発見されうるかもしれない。だがその前に、それをめぐる議論が口角飛ばしてなされていたり、噂があったり、資料という名の別の物語が存在している。そのどれもが、多くは自覚なしの暴力を同じように含んでいて、語ると言うことは結局その資料をあらためて読み直し配置し直し書き直すこと、その前の語りを語り直すこと、暴力に暴力を重ねることであって、その始まりを突き止めることも、その暴力の発現を避けることも、おそらくできはしない。当然だが、この文章もその繰り返しであり、悪いことに誰かが言ったことを勝手に薄めて流通させようとしている。
そこであらためて切り貼りを行う。前に語られた物語の暴力を突き止め、探し当て、それを注意し暴き避けながら、自分の暴力を自覚しつつ、別の形に物語を組織する。ときには大がかりに、時には視点を細部に集中させて。コラージュし、別の形に置き直し、その隙間を調整してなめらかなストーリーに、大小は別として均してゆく。