切り貼り2(つづき)

切り貼りする。しかし、パソコン上で行うそれは、痕跡が残らない。カット&ペーストという機能でなされると、メモを並べ替えたり、下書きを鋏で切って置き直してみたりするような痕跡は残されず、あいもかわらず一面の白い画面と文字だけだ。残らないのは切り貼りの痕跡、新手の話者の暴力の痕跡が残されない。暴力の痕跡が残されないこと、これにとても関心がむく。
切り貼り。コラージュというものに、とても惹かれるのはなぜだろうか。誰もが惹かれるのだろうか。二〇世紀の美術をみるとき個人的に、コラージュというあり方、概念、手法を抜きにして見ることができない。エルンストだけでなく、他のあらゆる現代絵画も彫刻も、なにかのコラージュのように見えてしまう時さえある。モダニズムの代表作さえもそうだ。もちろん平面への還元もあるのだろうけれど、平面へ還元されるほど、複数の図像が暴力的に折り畳まれコラージュされているように見えてしまう。
その切り貼りされた輪郭、切断面、かけらに注目する。というよりも、その切断面をつなぎ合わせるものが気になる。糊なのだろうか?その時、どんな手つきで貼りあわせたのか?切り貼りは暴力的にみえるが、そのとき、切る、という方だけでなく、貼る、という行為の方もまた異様な行為だ。別々のところから持ってきたものを同じ平面の上で一つにしてしまう。切り裂いた後に糊で貼る、別々のものを釘で打ち付ける、金属同士を溶接する。異質なもの同士を強引に一つの場に接合する。それらは場合によっては切られていなくとも構わない。遺伝子をかけあわせる、食べ物を一つの鍋で煮込み、火で炙る、切開したのち縫合する。それらは手慣れた手つきでなされるのか?それとも荒々しく、投げやりに、素人のままおこなわれるのか?
糸、糊、釘の使い方。職人になればなるほど、それが使われたことが分からなくなってゆく。切り貼りされたこと自体がわからなくなってゆく。熟練の手つきで、あたかも最初からそうであったかのように一つのものとして貼りあわされることになる。そのとき暴力の痕跡は薄れて消えてゆく。衝突や摩擦、不均質の違和感、おぞましさが消えてゆく。
その技術に興味がむく。むしろ、二〇世紀はその技術を大がかりに進展させ洗練させてきたようにさえ思う。大量、という問題を処理するために、いたるところで起きる摩擦や衝突や事故を防ぎ、振動し高速で変化する要素を円滑に、齟齬なくして構築するように仕立て上げる、さまざまな装置。緩衝材であり潤滑油であり、全体の機械がますます巨大に精緻になっていけばいくほど、ありとあらゆる手法で齟齬や摩擦が消去されようとする。その複雑な手つきと手さばき。