サンプリングと持続

これもまた自分でも意図がわからぬまま、デビッド・シェイの「クラシカル・ワークスI」と、Alvin Curranの「Animal Behavior」を聴く。どちらもサンプラーを使っていて、いま興味がある「切り貼り」に近いからかもしれない。しかし、その目指すところは二者でだいぶ違っていて、そこが面白い。
シェイのクラシカル・ワークスは、ライブ録音ながら、演奏者がアコースティックで、またペダルを踏んでエレクトリックで演奏できるように指定してあり、さらにサンプラーがライブでそれらの演奏をサンプリングしてゆく。アコースティック・エレクトリック・サンプリングと3種のオーケストラがあって、それを組み合わせる、という形、と説明に書いてある。だから演奏も、音が増えていく、どんどん貼りあわせてくわえていく、という形になっていて、それを強調するように一音が短い場合が多いように思われる。パパパパパ、という音に、サンプリングで同じ奏者の同様の演奏が重なっていくところは、それを見せてくれているのだろう。曲自体は、あれこれと言うこともないけれど、どちらかというとまったりしていて、たまに聴いてみたりする。早晩、こうしたサンプリング・オーケストラは一般化しそうだし、問題はむしろ曲自体の方かもしれない。
Curranは、それとはまったくちがう。実はCurranのCDを一時、探していて、しかし大型輸入店にあまり欲しいのがなかったことがあったりした。このCDは、Tzadikの作曲家シリーズの第一弾だ。スリーブに「マーケティング」とか、今では見ない項目があったり、番号が「A」だったりして、レーベル立ち上げのときの状況が想像できたりもする。しかし内容は第一弾にふさわしい、傑作だとおもう。2曲しか入ってないけれど、一曲目はサンプリングによる、声をあれこれ操作した作品で、二曲目は器楽を中心とした作品。どちらも素晴らしいし、一曲目はそうとう政治的(政治的な発言を使っている)で、使っている素材がかなり少ないのに、集中力とユーモアと凝縮力があって、聴いていてまったく飽きない。二曲目は、ある和音が持続的に鳴ったり、途切れたりする一方で、パーカッションとピアノによる、フリージャズっぽい演奏がそれに合わせてブロック状に続いてゆき、やがて和音から離れてゆく。パーカッションはともかく、そこでのピアノが、フリージャズのピアノを圧縮して高速化したような凄まじいもので、誰かと思いきやCurran本人。
ただ、この二曲を聴いていると、サンプリング音楽から想像しそうな圧縮や高速化、激しいパッチワークもあるにはあるけれど、独特の持続感というか、「曲」というくくりでパッケージされた時間の中を流れる、一貫した持続の感覚を痛感させられる。それは沈黙の瞬間こそ感じられて、別にリズムを刻みながら沈黙を過ごすと言うよりは、沈黙自体にねっとりしたような、何かの感触があるかのようだ。濃密な一つの時間ができていて、その中に音を入れていくというような感じといえば、うまく表現できているのか。これは西欧的、といっていいのだろうか?建築なら「空間」がそうだろうし、とにかく建築が立ち上がればその中に濃密な空間が出現したりする。演劇も、開始されればステージ上に、ある独自の時間と空間が立ち上がり、その内部で登場人物が動き回ることになる。小説も断章形式になろうが、始まるや、ある程度の舞台設定と世界観と主体が生み出され、それを文章によってどんどん増殖させ動かしてゆくという感じがある。
勿論それに対して反抗し、テマティックに表層だけを横断していったりという読み方もあるだろうけれど、それがラディカルたりえるのは、それ以前にかなり確固として作品内部に緊密な世界が立ち上がっているという感覚、前提があるからのように思われる。絵画も、いかに薄っぺらくなろうと、油絵の具でべったりと覆われた画布はその周囲から切断されているようにおもう。これも、そこから逃れようとするのがラディカルになるのだろう。そういう「構築」ぶりというか、充満したものの感触は、娯楽度合いを高めるほど(推理小説とかキャラクターものの遊園地とか)薄くなっているように思うし、それは決まり事が多いせいで、設定する事項が少ないからではないかと勝手に想像する。
こういう持続感が日本にはあまりないように思うのは、単に教養不足なのだろうか。ここでいっている持続は決して歴史的な持続、ある言葉を発すればそれがすべてその国の伝統を引き継いでいる、というような持続ではなく、ラディカルな身振りであろうとも、その身振りの連続が生み出してしまう、パッケージされた内部の時間のようなものを指している。反対に、日本的なものは、そういう作品内の持続よりは、作品の表象のもつ伝統性という持続に向いているように思われる。かつて見たり読んだりしたものに似ている、という安心感のようなもので作品が維持されている、とも思う。作品内部は、なんとなく繋がっている、というところだろうか。
いいかえれば、たとえばCurranの作品を聴くのは、その作品内部の独特の時間感覚を聴いている、体験しているような印象さえある。その時間が作品ごとに、作曲家ごとに異なり、とりかえが効かないもののように思われるからだ。対して、日本的なものは、どれも時間は一定していて、その上に乗っているものが違う、だから場合によっては乗っているものがバラバラでも大丈夫、ということになるのかもしれない。時間感覚がグニャーと歪むようなものは、大抵マージナルな領域に押し込まれてしまっているだろう。時間感覚が歪むというのは、単に変わった情報を仕入れるよりも、もうすこしキツい経験だろうからかもしれない。
日本的な商品として、古来の伝統のようなものと並んで、ミニマルな作品があると思うけれど、後者が日本的な商品たりえるのは、そうした理由もあるのかもしれないと、ふと考えた。