切り貼り3(つづき)

切り貼りする、その貼り方。接続。接合。縫合。接着。
二つ以上の異質なものを、一つの平面でつなぎ合わせてしまうものに興味が湧く。潤滑油であったり、調和であったり、そうしたものといってもいい。実際、まわりをみれば、いたるところにそうした接合するものが溢れていることに気づかされる。それらがなければ、当然ながらいかなる道具も装置も、動くことはおろか、存在することさえ出来ない。ネジがなければ大半のものは素材に分解してしまうし、コンセントがなければ電気も届かない。接合とはテクノロジーの重要な一部といいかえてもいいのかもしれない。
それだけではなく、社会においても、いたるところに摩擦を減らし、接合するものが蠢いている。公民館もそうかもしれない。区役所もそうかも知れない。国会も、代表制という名の下で国民を調整する機関だろう。あるいは見知らぬ他人同士が、何の違和感もなく取引できるようにしている紙幣や貨幣もその一つだ。労使が対話する団体交渉もそうだ。僕たちの周りには組織を円滑に機能させるため、絶えずいくつもの緩衝装置が入り込んでいる。日常においては摩擦など邪魔以外の何ものでもないからだろう。
それらは制度としてある。あるように見える。が、もとからあったわけではない。あるとき、それらを結びつけるべくその制度が暴力的に介入し、結びつけた。そしてその配置のあり方は、いまなお複雑に変化し、入れ替わり、構造を変えているのだろう。制度とは安定しているものでは決してないとおもう。
それを暴力と共に再考する必要もあるのではないだろうか。公共性といういま論議されているある種の調和めいた概念、あるいは場の概念もまた、暴力性とともに再考されなければ、実現することはありえないのではないかと思う。調和はそれ自体、暴力の介入によるのではないか、と。