長いけど最後まで読んで欲しい

作業を進めるが、実のところ一日に2時間しか作業していない日もある。あとは本を読み、食事をし、ビデオを見たりCDを聴いたりする。優雅な生活にみえるかもしれないが、実際は生活費を切り詰めながら、かろうじて何かを作り出すための時間を見つけることしかできない。人によっては、昼夜アルバイトをしながら書き物をする人もいるのだろう。かといって、時間があるから生産性が上がるわけではまったくない。大学を卒業した後も学生を続ければ、大なり小なりこういう生活が待っているだろう。もちろん、もっと本当に優雅な生活を送った人も知っているし、生活費を限界を超えて切り詰めながら、留学生活を耐えた人も知っている。それは経済状況やその人の野心や戦略によって、個々人でちがうだろう。
文系の学問に属しているから、生活はなんとなく優雅にみえるかもしれないが、我ながらその非生産性に呆れることもある。それは学術的なアウトプットだけでなく、内容自体の非生産性もふくめてだ。実際、このところ文系というか人文諸科学はだいぶ世間体がよくない。いま従事している歴史学はいくぶん社会性があるけれど、はたから見れば何をしているのか、ひょっとすれば哲学以上に謎の学問だろう。歴史を学ぶ、と書くわけだが、実際は歴史に何かを学んでいるかというと、そうでもなさそうだ。というより、あからさまに歴史に何かを学んだりすることはできないし、個人的にはしてはならないとさえ思う。かといって、例えば文学のような華やかさもないし、哲学のような理論を表立って打ち立てるわけでもない。作業はといえば、昔々に書かれたりした文書を読んで、その事実を確定するのが基本。最新の潮流とか成果はあるけれど、ふと他領域を眺めてみると、だいたい無視されていることが多い。
つまり歴史というのは、歴史学独自の領域ではないわけだ。経済学にも経済史が、経済学史とは別にあるし、政治学にも政治史がある。哲学にも思想史や社会思想史があるし、美術や神学や音楽も、それぞれに歴史を学問体系としてもっている。もっているし、その内部でも独自の展開があるのだから、わざわざ歴史学などという正体不明の学問まで見なくともよい場合もあるのだろうし、そういう人もいるだろう。
むしろ、個人的には歴史学はそういう領域を跨ぐ形で、あるいはそれらの基礎としての情報を提供し、練り上げるものだと思っている。たとえば賃金というのは、諸々の社会的・経済的・政治的要因から額が出てくるわけだけれど、その額についても、20年前の研究から現在の研究の間で、かなりちがいがある。男女の賃金格差というところまで踏み込めば、八〇年代を中心に盛り上がった女性史の成果があって、六〇年代の研究書や論文とは大きく異なるだろう。それは当然だが現在の社会認識というところまで線が引かれる問題だ。それは他領域でも基礎データとなるものだろう。
そのような点も含めて、やはり他領域と歴史学の接点というのが少ない、というのは実感せざるをえない。一つ例をだせば、「近代を推進した源としてのプロテスタンティズム」という考え方があるが、個人的に理解した範囲でいえば、これは現在、西洋史ではほぼ誰も口にすることはない。それは、議論が流行遅れというのではなくて、論点の多くが批判され、否定されているからと考えなければならない。あくまで個人的に理解した範囲だが、その理由を暴力的に要約すれば、資本主義とプロテスタンティズムは、ほぼ同時期に、というよりその始まりを設定すると資本主義の方がむしろ先に生まれているのであり、プロテスタントの倫理が資本主義の精神を生み出したというのは時間軸がおかしい、ということになるだろう。またプロテスタンティズムがそれほど禁欲的ではない、ということもある。近代のエートスをどこに求めるかは、また別の問題だ。これはかなりの時間をかけた論争のなかで出されてきた成果であり、人によっては命を賭けた場合もあるのだが、その成果がどれほど浸透しているのか、これはまったく頼りない。
あるいは、革命という概念も、かなり否定されている。たとえばイギリス市民革命、というときのピューリタン革命。これは実のところ、むしろ貴族同士の「内乱」と呼ぶべき事態であり、市民が自力で立ち上がった「革命」かといえば、それは実証的にかなり偏った見方とされるだろう。産業革命もまた、革命的というよりはかなり漸進的であって、むしろ工業化という語を当てられる(当然だが、これは言葉だけの問題ではなく、中身に関わる)。あるいは近代を開始したという宗教改革も、イギリスの場合、むしろ政権が強権的におこなった施策として見るのが、今の見方だろう。「絶対王制」という概念も、その必須条件のひとつである常備軍をイギリスはもっておらず、ヘンリー八世からエリザベス一世にいたる王権を絶対王制ということは、定義上できない。というよりも、かなり時間差のあるいくつかの王権を一括りにすることが、今ではおよそ無理に思われるほど、それぞれの王権の理屈の違いが分析されてきている。
当然だが、これは革命という概念自体を否定しているのではない。ある事象に対して、それをどう名指すかという問題だ。これらは、はっきり言えば前提になっているといってもいいだろう。しかし、こうした「宗教改革」「絶対王制」「市民革命」「産業革命」といったタームが、まったく変化しないまま今も用いられている場合をみることが、ままある。もちろん、新しいものが即ち正しい、ということではないけれど、そのまま使って構築された理論や議論を見ると、なにかおかしい気にもなってしまう。
このあたり、どうしていいのか、まったく分からない。歴史学が諸学の王と主張したいわけでは全くない。しかし、非生産的であることは承知していても、このあたりが実は生産性の鍵だと思うからだ。あるいは、最低限貢献できる何か、といってもいい。派手さもなく、ひたすら資料に向かって地味に進める作業でできるのは、こうした地味だが基本的な項目を検証し、提供することだろう。
この文章は、書き飛ばしているから必ずしも厳密に正確ではないけれど、こういう議論があって、すでに前提になっている、すくなくとも前提になりつつあるということを気づく人が少しでも多くいていいだろうと思う。だから、分不相応の内容と知りつつも、この文章をここに残すことを許して欲しい。なお、このページの文章は、書き間違いや聞き間違いによるミスなど、すべて訂正しないで残しているけれど、今日のものだけは随時訂正をしてゆく。また、前後に変な文章が入っているけれど、個人的に何かのセクトや宗教観、信仰に所属したり、縛られている者ではないことを付言しておきたい。あと、たまたまこれを見て、興味がある人は、メールをくださればお返事することを約束する。何か誤りがあれば、それへの文句でも構わない。