引き続きKayo Dot

引き続き書く。いつまで続くかはわからないが、脳内麻薬のようなものが出ていて、集中力が続く限りは、いくらでも話が続きそうだ。ここまで来るのに、やはり時間がかかった。
一昨日かいたKayo Dotについて調べてみたら、ネットでホームページがあった。日本でどれくらい話題かはわからないが、一応インタビューのようなものも英語では掲載されている。ちらちら見ていたら、大筋で間違ってはいなかったみたいだ。ただ、「起承転結」がないどころか、どうやらほとんど「繰り返し」さえないらしい。そこまで注意深く聴いていなかったということなのだろう。年齢も、同世代といえば同世代、ほとんど年は変わらない。別に美醜は問わないけれど、弦楽器を担当している女性も、見た目はかなり際立つようで、一部ではかなり話題なのかもしれない。ライブも向こうではけっこうやっているらしい。
しかし、そういうものをみると、やはり気になる。今はかなり形になっている大友良英氏の音楽が、かつて目指していて、しかし放棄したのであろうと思われる「起承転結のない音楽」を、そのものずばり進めているようだ。それも電子音響のような、ある意味で抽象的というか、原始的なという雰囲気さえあるものではなく、メタルやフォークやクラシックといった、とても生臭いと言えば生臭いものを、エレキギターも含めてきちんと手で演奏する形でやっている。その分、なんだかわけの分からないものができてしまっているようにも思うけど、音響のようなイメージを極力排するというか、ある意味で抽象化に逃げるわけではなくて、とても具体的なものを使って正面突破を図っているようなところが面白い。しかもオドロオドロしいところがあって、高級感があったりなかったりするところも、かなり面白い。ホームページにはきちんと歌詞がのっていて、それは聞き取れないのが前提ゆえのサービスだと思うけど、なんだかんだで歌も歌っているところとかも。
どれくらいシリアスなのかは、写真ではさっぱり分からないけど、やっぱりこういう方法もあるよなあと再確認する。ポストモダンが「情報の圧縮化」みたいな紋切り型になって消費されてしまったような現在で、でもそこにこだわって何かすると、とりあえずこんな形になるんじゃないかと思う。美しくない、意味が伝わらない、ギクシャクしている、長すぎて全体がみえないという批判は当然のようにあるだろうし、エモーショナルな盛り上がりは絶無に近いように感じるけれど、でもそうそう簡単に形にしてはならないというようなマイナスの拘束感も感じる。菊地成孔の、徹底的にモダンの原理をズラして回避しつつ、新たな興奮をほとんど教科書的に提起しているような(素人なのでわからないけど、とぼけたジャケットやタイトルも含めて、異常なほどにシリアスにそれを進めているように思う)音楽とは、まったく別の方向性のポストモダンだと思う。別に結果を急いで求めるわけじゃないけれど、これから先どうなるのか、そのへんが気になるところだ。ここから、ありきたりなカオス状態にならないようにしつつ、どう進むかが、この世代に突きつけられている一つの大きな問題だと思う。世代論は好きじゃないけれど。
というか、CDを買えということか。