突如

所属している機関が伝染病のため一時閉鎖。なかなか驚くべき事態で、所属しているこれまで10年近くではじめて。

ゴーチエ「シュルレアリスムと性」を今さらながら読む。論旨そのものに驚きはあまりないが、とりあえずシュルレアリスムが「性」という問題を、資本主義とともに集中的に扱ってきたこと、そしてその活動が1950年代まで継続されていたという、ごく当たり前のことをあらためて気づかされる。また、その論旨をほとんど破綻させてしまうような数々の引用があって、やはりそれが興味深い。ここではベルメールアルトーが主に可能性の最先端として取り上げられていて、ブルトンの保守性がむしろ強調される中、そうした対比も興味を惹く。
丹念に批判と引用、記述をくりかえす本書は、作品にほとんど同一化してしまうような意気込みにおいてはかなりの力作で、とくに読み進めるごとにあらためて確認されるのはシュルレアリスムの手法というか、言葉遊びだったり図像に図像を重ねたり、さまざまなテキストを下敷きにしていたりするという、一見おどろおどろしい中にある理知的なテクニックの積み重ねだろうか。たしかに、そこで出てくる絵画やデッサンは異形だが、良く見てみれば既成のものを組み直し、組み替えるという操作を執拗に繰り返すことで、秩序を変形させようとしているということは、最低限のラインとして確認されておくべきなのだろう。あるいは、なにか秘教的な雰囲気をもっていても、そこではなく、むしろ、手探りであったりやけくそであったりするかもしれないが、その冷徹な手つきこそが興味深い。
こうしたこととともに、いわゆるポスト構造主義などと呼ばれた思想家の作品が、実はシュルレアリスムの影響を受けている、あるいはともすれば同時代的でさえあることにも気づかされる。資本主義と欲望の分析、精神分析と権力、政治、といった主題は、まさにその時期の思想家のテキストのいたるところに見出されるものではなかったか。そして、そうした影響関係が、教科書的な理解の中でスッポリ抜け落ちてしまっている、あるいは美学の問題が抜けてチャートだけになっているという疑問も浮かんだ。

上述の本にはほとんど出てこないが(立体作品はベルメールと「泉」だけか)、ジャコメッティの作品も興味深い。先日、国立新美術館のオープニング展にいってきたが、数少ないとはいえジャコメッティはやはり美術史の大きな流れに沿いながらも、そこからの逸脱をみせていて興味深かった。さまざまにスタイルはかわるが、どれもヴォリュームと複雑な表皮の組み合わせからなっているように見える作品は、とにかく見て驚くばかりで仕方がない。