おどろくばかり

 すこし時事的に。いつのまにか、政治は大きく変わっているようで、何にしろ驚く。政府のイメージ戦略の成果なのか、改憲はすでに当たり前になってしまったし、それは一年前には空想事のようなものだったはずなのだ。あるいは、支持率がここのところ異様に変化しているのだが、その理由はどうも行政サービス上の問題のせいらしい。とすると、支持率というのは体制全体というよりは、サービス制度によって変化するのか。それと前首相期における支持率のあり方と、どのような関係にあるのだろうか。

 なんとなく、感覚的にだが、ある一定のイメージを保持する時間が短くなってきているような気がするというか、持続的にあるイメージを抱きながら、それを吟味するという感覚が、少なくとも世論において薄れているように思う。ネットサーフィンのように、次々にスクリーンが移ろうごとに感情まで変化しているような。大臣の自死さえ、移ろう一こまにすぎないのか、もうほとんど口に上らない。


 久しぶりにライブ。ピットインでONJQ
 いつもといえばそうだが、予想を大きく裏切られてびっくり。大友良英という人は本当に本気で自分のテリトリーに異物を入れるようで、それが上手くいこうがどうなろうがやってみることに驚く。カルテットでもう充分すごいし、ただの阿鼻叫喚とは違う迫力があって、鳥肌が立つほど。だが、秋山徹次が本当に怪物的な異物感で、クインテットになったら全体がどこにも収斂しない、なんだかエイリアンみたいな演奏になっていた。どんな大きな音になっても、ほとんど聞こえなくなったアコギのポロロンみたいな音で全体像がクラッシュして、グラグラした不安定な感じになる。見ている位置がちょうどその正面だったせいもあるのかもしれないけど、周囲が(周囲、とおもわず言ってしまうようなところがあるのだ)ものすごいテクニックで大音量になっても、目と耳はアコギに集中してしまい、とくに終盤は頭が文字通り分裂しそうになった。こんな体験ははじめてだ。
 たとえれば、レディメイドが置かれた瞬間の驚きってこんな感じだったのだろうか。周りにあるものの意味が突然かわってしまうような、ある種の非現実的な感覚。しかも他の4人(他の、と言ってしまうような感覚だったのだ)も、限りなくバラバラに近いけれども凝集感のある演奏で、その枠組みの(作曲や解釈の)部分で知的な作業も感じた。とくにドルフィーの曲が、その分裂しきった演奏にもかかわらず見事にまとまっていて、最後に全員が一斉に終わったときは驚きもひとしお。素晴らしいとかいうよりも、何かショックを得たということでとても貴重な体験だった。

 TzadikからでたSylvie Courvisierのソロ。まるで右手と左手に別々の人格が宿っているような、異様な演奏だった。あるいは一方にロマン派をはじめとするクラシカルなメロディーがあり、他方に現代音楽やフリージャズの断片があり、それが一人の中で問題なく同居しているようなものなのだろうか。硬質な響きの攻撃的な演奏から可愛らしい旋律までがグネグネと混じり合っていて、聴く人によってはグロテスクすれすれなのかもしれないが素晴らしい。