秋あさし

唐突な気温の変化のせいだろうか、風邪をひいてグッタリすごす。そんなこんなの、さて、今年はいよいよ秋があるかという時代である。

ようやく大友良英の「ONJO LIVE」のvol.1を聴く。といっても、あまりに量が多く、即座には感想が書けないほどのヴォリューム。実際、ここに収録された1曲だけで、充分に楽しめるとおもうのだが、それが2枚組み、しかもまだvol.2が続いていることも分かっているわけだ。たとえば2曲目のout to lunchだけで、充分な長さと刺激(歌詞を知りたいところではあるけど)があって、しかしそのあとに即興的な要素の強いdouble commandが続くなど、いってみれば、なかなかその全貌を掴むことができない。これはvol.2とあわせて、あらためて聴き直さないといけないということになるだろう。
ユリイカ」の特集もあわせて読むと、少し前にそうした議論がネットですでにされていたようにも記憶しているけれど、やはりややいわゆる批評が少ないかなという感想。批評というのは、原理論ではなくて、一つ一つの作品をとりあげて、言葉で分析・記述をして、その価値なり面白いところなりを抽出する作業というほどの意味で、特集全体は、どちらかというとパーソナリティや履歴、あるいは反対にとても大きなテーマ的・原理的なものを扱っているようにおもう。
たとえば、ずっと気になっているのは、発売直後にも書いたように「幽閉者」のサントラで、とくにそのラストが、果たしていかなるものか、なかなか把握しきれない。「remix」誌のインタビューをたまたま見つけて、その最後の部分について、苦悩の末にモノローグにノイズをかぶせたとするのを読んだが、それでもなお、よくわからない。そこでは、さまざまな体験を経てなおエロスと革命を志向する思想を表明する、強烈なモノローグが流れ、途中から爆音がそれを塗りつぶしていくのだが、端的に書けば、そこでのノイズ(のような音)は、このCDでそれまで流れていたノイズと同じものなのだろうか?
それまで、音声のみならず沈黙や物音まで等価に扱い、そうした音の海の中で違和感なく混ざり合うように発せられたノイズが、最後にいたって、そうした位置を放棄し、あくまで音声に対して、というよりもむしろ音声に込められた「意味」を押し潰す政治的な道具として用いられているように聞こえる。ここでは、音響云々というのではなく、政治的な内容をともなった言語と、それに対抗するものとしてのノイズ、という、ひょっとすると退行しているのではないかというような形で(つまり響きではなく、意味内容がここで問題になっているのではないか)、ノイズが使われているのではないか。政治という、ともすれば40年近くも沈潜していた問題に、あえて向き合った誠実さに感動する一方で、そうした問題とどのように向き合うのかというのは、非常に重要な点であるように思われる。(とても口出しなどできないが、たとえばそれが爆音ではなく、レコード針のパチパチ言う音で、まるで録音テープのような処理が施されて、そのあと最後に科白が引用されるところで爆音が出てきていたら、そういうことは思わなかったようにおもう)。

もちろん、こうした問題がこのCD一枚で解決されるわけでもないし、むしろ、まだ耳にしたばかりのONJOや、あるいはGREEN ZONEなどが、すでに別の角度から政治の問題と交叉する作品となっているようにもおもう。
いや、それこそライブを見に行かねばならないだろう。