紋切り型辞典だけには似ないこと(どれほど貧しくとも)

大谷能生の「貧しい音楽」を読んでみた。そこに綴られた文章は、とりあえずなにが「貧しい」かは問わずにおくとしても、まずは90年代から00年代初頭のドキュメントとしての価値があるように思われるし、あるいは、その文体が放つ退廃的というべき独特の感触が静かに本を埋め尽くしていることにきづく。
さしあたり何が「退廃的」かは問わずにおくが、実際、ここで繰り広げられているのは、決して音楽に「美しさ」を求めるものではないだろう。いや、ここではむしろ、なにが「美しい」かという問いを宙吊りにしたままに、すべてが語り尽くされており、もちろん表現に対する評価としてつきまとうはずの「豊かさ」も「洗練」も「熟達」も、ほとんど問題にされておらず、そうした美学的な価値判断を停止したままに綴られる書物の題名が「貧しい音楽」であることは、ゆえに、おそらくほとんど反動的なまでに正しい。
あるいは、むしろ著者の文章は、ほとんど「反動的」でさえあるといえるかもしれない。実際、そこではしばしば「歌」とその「死」が語られる。複製を生ものである演奏がパッケージされてしまった死骸とし、その市場をとおした死の世界的な展開が執拗に強調されてゆくのだが、その死骸へのフェティシズムや、そこにおける「死」をひそやかに語り続ける語り口は、いつのまにかある種の「美しさ」さえ帯びはじめており、そこにノスタルジーを見出すことは、あまりにも容易い。いいかえればそうした複製を聴くこと(あるいは美しい複製を聴くこと?)への執着といったことは、その視線を(あるいは聴覚を)しばしば過去へと遡行させることとなるだろうし、すでに死んでしまった歌を感傷的に愛でることになりかねまい。事実、たえずそこで殺されてしまった歌へと意識を遡らせる著者は、ときおり歌こそ共同体で聴かれるものであると断言し、あげくそこに「歴史」までを重ね合わそうとするだろう。
とくに、末尾の文章では、「ホロコーストを聴く」という、刺激的かつ問題提起的な、歴史にかんする考察をすすめながらも、それまでナチスと虐殺の問題について語っていたはずであるにもかかわらず、最後になって突如「原子爆弾」の一語が登場してしまうとき、そこにはあきらかに、共同体=歴史であり、共同体=歌であり、そしてそれがある特定の言語によって支えられたものであるといった図式が透けて見えてしまう。いいかえれば、この本では、共同体の問題が、すなわち、極東の群島であるところの、ある政治経済的な一領域の問題に絞り込まれているようにみえるし、そのようにみたとき、実際この本は、地政学的なある一範囲の事象に記述対象が限定されてさえいることに気づく。そのように一貫して対象が地理的にきわめて狭い範囲に限定されているとき、この本の題名が「貧しい音楽」であることは、もはや反動的なまでに正しいとしか思われない。
にもかかわらず、そうした幾重にも意味のとれる「貧しい音楽」が奇妙な感触をもたらすのは、そうした生きられた共同体の歌と、死んで世界的に頒布されている複製という対立の図式の向こう側に、即興もしくは演奏をさしだすときにほかならない。実際、著者は、複製技術にいくえもの死をみいだしたり、あるいは絢爛豪華な文化の衰退をもって反動的な姿勢を示したりする身振りが、映画史をはじめとして一つの紋切り型であることに充分自覚的であるし、そのうえで、音楽においてはそうした単なる反動が許されない場として、唐突なまでに演奏という行為を、あるいは即興の現場という、録音/複製に回収されない場所を指し示す。そのとき、それまで漂っていた共同体への郷愁はひややかに断ち切られ、「死と生」といった二項が転倒するわけでも止揚されるわけでもないままに事態は空転をしつづけ、放置しておけばフェティシズムやネクロフィリーといった適度な退廃にでも落ち着いてしまうだろう世界のなかで、咀嚼されきれていない不気味な感触をもたらす。
実際、この本の中で、ほとんど主題としてとりあげられていながら、充分な記述がなされていないのは即興についてであろうし、歌と録音のあいだにいながら「底の底におりていく」「すべてのよろこびと手を切ろうとする」といった、奇妙に宗教的な色を帯びてさえいる言葉で示されている。いいかえれば、ここで著者はその死の果てにある生をみる、というような、奇怪にも倒錯的といってよいだろう世界を描きはじめており、その倒錯は、ところどころに顔をだすシュルレアリスムの掲揚とゆるやかに接続されながら、音が鳴るあらゆる空間をあらたな色に染め上げてゆこうとするだろう。そのとき、「貧しい音楽」は、音が鳴るあらゆる瞬間を肯定しようとする新たな試みとして、いまだ咀嚼しきれない私たちの生きている体験を、どうにかして問い直そうとする倒錯と挑発の書物として、私たちの鼓膜をあらゆる方向へ錯乱させるべく誘惑している。

・・・といった文章を書くことは、要は76年生まれである僕には簡単にできてしまう(ここまで書くのに10分とかかってない)。文章を読むというのが、同時にいくつもの体験を経ることだと思うのは、これを読みながら、世代論がなにをも意味しないと知りつつも、どうしてもその時代を感じてしまうからだ(この本で引用されるすべての本を僕も読んでいるし、逆に言えば引用される理由や文脈がわかってしまう)。ただそれは疵ではなく、むしろ単なる理屈っぽい書物であるという以上に、ある意味で時代の潮流に身を浸しつつ書き連ねられたドキュメントになっていると思う。
とくに即興については、実際に現場にいかないと感じられないことや、分からないことが多いし、いくつものインタビューは、その意味でも(聞き手の質問項目をふくめて)ドキュメントとして面白く、それがしかも(おそらく「ふつうの」聞き手には)ほとんど意味不明な物音でしかないような音楽についてのものであるのは、やはり刺激的。
そういえば本書に出てくる「大友良英 ポータブル・オーケストラ・家電編」の演奏に、僕も行っていたことを思い出した。そこに著者がいたことさえわすれていたけれど、ただいくつもの家電品が、ほとんど部屋いっぱいの聴衆のなかでオン・オフされて騒ぎ出す(というか、演奏者の手のなかでのたうち回っているようにみえた)振動音を聴いて、その何かあり得ない組み合わせ(コウモリ傘とミシン、という以上に変てこりんだった)が当たり前のように一つの空間をつくりだし、しかも驚くべきことに濃密に組織されている(らしい)ことに呆然としたりしていた。ただ、はたしてあそこに共同体があったのか、僕には分からない。お互いわかりあえないまま、方向性が一致さえせずに、しかし何かを共有する場だけが生まれていたようにおもうのだけど、その現場から書き連ねられた文章には記されているそうした感覚が、他の文章とは、「共同体」をめぐって齟齬を来しているようにもおもう。うかつにすると共同体に繰り込まれてしまうような力学をどうするか、という疑念が個人的にはあって、そこは少し、首を捻る。
一方で、複製についての議論は、とくに歴史と絡めるとき、まだ練りきれていないような印象を受ける。実際、現状では図書館などのデータベースであらゆる史料がパソコンのモニター上で視ることができてしまうようなことになりつつあり、そのとき、史料といっても検索ツールとさして変わらなくなってしまうような感覚もあるし、そこで歴史を聞き取るという行為がどのようにして確保されるのか、その点で、あくまで00年代前半までの状況に議論が限定されているように感じた。
ともあれ、唐突に言えば、この本の何よりの美徳は、まるでこれを読めば日本の即興について何かわかるかのようにパッケージされながら、実はまったくブック/ディスクガイドの役割を果たしていないことにあると思う。いま何を聴いたらいいのかといった、流行に乗るための安易な問いに対する答えなど、一切ない。何を聴くべきか、あるいは、何が聴かれて(もしくは聞こえて)こなかったのか、そこから問い直さないといけないということを、この本は執拗に繰り返しており、その問いかけの、あるいは問いだけの執拗さによって、ある世代が陥ってしまう問題群に縛り付けられていながらも、もっとも陥りやすいはずであるところのブック/ディスクガイドに似ていない。その一点においてこの本は、その題名にもかかわらず、時流に反した貴重で贅沢な試みになっているとおもう。そして、そもそもその問いが果たしてどのようなものであるかを知るためには、この問いだらけの本をくぐりぬけなければならない。そうしなければ、僕たちの耳は死に続けたままになってしまうだろう。