2度

すこし時差があって、対象は同じだけれど、Iを書いてから2週間くらいしてIIを足した。そのままアップする。
 *I**
 ようやく大友良英ONJOのライブvol.2を買う。これは凄い。Vol.1とどちらが好きとか嫌いとか言うべきではないかもしれないが、個人的にはこの2の方が好きかもしれない。vol.1だけだと、実はどこか抽象的なかんじを覚えて、曖昧な感想しか書けないのだった。よくわからないのでそのまま、という人がいたら、ぜひvol.2まで進むべきだ。
とりあえずこちらの方が、メロディーがはっきりしている曲が多い。と断言はできないが、個人的にはグッと来るメロディーがある曲が沢山ある。あと、全体的にロック的というわけではないが、アッパーである。アッパーだからといってささやかな音が聞こえないかと言えばむしろ逆で、非常に印象につよい旋律と激しいリズムを内側から突き破るように無数の音が溢れ出てくる。そのどこまでも臨界まで洪水のように溢れる異様なヴォリュームと、うねるような力強い旋律が同居している。
 こちらの方が好きだというのは、ちょっと恥ずかしいというか、恥ずかしいまでに胸を打つようなメロディーが好きだということでもある。とくに「アマンダ」の囁きから、一瞬の沈黙の後でサックスが鳴り出すと、その一音だけで何か反則技を使われたような気分になるし、一番最後のクライマーズ・ハイのエンディングテーマも、そのテーマだけでもうダメだ。恥ずかしい、恥ずかしいけど、でも良いのだ、それは否定できない、でも恥ずかしいかも、という、一人で聴いているにもかかわらず、奇妙な自問自答に陥る。ひょっとしたら浪花節なのかもしれない、でも素晴らしい。
 かとおもうと、anodeonjoという曲は、最初onjoによるアノードかと思っていたら、聞き間違いでなければアノードのなかでサックスを吹いている。ものすごい音が潰れたガタガタドロドロの音塊の中で、そこから身をよじるように噴き出す演奏がたまらないのだが、これも、これを良いというのはまったく別のニュアンスで恥ずかしいのではないか、いや、後半のソロは津上健太かとおもうが、やはりこれである、などと自問自答する。そのあと、2枚目の2曲目は、僕は実際にライブをみていたけれども、聴いていた位置もあるだろうし、だいぶ印象が違う。とにかくそこでは取り返しがつかないほど音が、指揮という限定のなかで、しかし自由に溢れていて、それだけでもあらためて衝撃的だ。
 そしてこの2枚を聴いて、ふたたびvol.1に戻ると、ようやく全体が見渡せる。この4枚で、ひとつのライブを聴く、という感じだろうか。浪花節だけではなかった、実験的なだけではなかった、通好みだけでもなかった、弱音だけでもパンキッシュなだけでもなかった。では何なのかというと、あらためてまた聴き直せばいいのだ。

*II**
 ところで、前から繰り返しているように僕自身は、ごく普通の、演奏家ではまったくない、ただの素人でしかない。だからこの感想も素人めいたものなわけだけれど、素人であるということは、ふと、流通している言葉に身を任せることでもあるわけで、たとえば、僕は音楽というのはファシズムに似ている、と思っていた。あるいは宗教に。
 たとえばロック・スターのライブにいけば、当たり前のようにダイブがあり、全員が絶叫し、ステージにむかって聴衆が目をギラつかせながら興奮している。静かな曲なら、目を閉じ、時には涙を流して聴いている人もいる。それが涙を流すほどの内容かどうかではなく、涙を流すことが定式化しているような曲に涙を流す人もいる。あるいは、その美しさに、天にも昇る気持ちで陶然とするときもあるだろう。PAとはどこで使われたか、とか、教会で何がなされているか、とか、つまりは当たり前のことのように、しかし、いまでもファシズムと宗教に限りなく近い可能性があると思っている。それは、もちろん快感でもあるわけだし。

 もちろん、それに抵抗する、あるいは脱臼させる試みがあることも知っていた。たとえばプロメテオという作品や、そのために作られたホールさえあることも知っていた。
 そして、この2組の2枚組のCDを聴くと、これは思いこみであるかもしれないけれども、そういうことを、けっして格式張ったり、作曲・演奏というアカデミックな拘束に縛られることなく、そのつど違う、そのつど変わる、そうした自由さをふくめながら、やっているのかなと思った。たしかに人数は多くなったし、その音は鼓膜の中から零れてしまうほど溢れている。けれど、これらのすべてを通して、非常に小さな音まではっきりと聞こえる。それは、何かありえないような音楽かもしれない。音同士が排除することなく、しかしそれぞれが剥き出しのように輝いている。もちろん、聞こえない音もあるけれども、潰れて断片にしか聞こえない音も、その断片のなかで存在を維持している。たしかに人数は多くなったけれど、なんというか、音楽そのものは、まったく大きくなっていない。これが、最後まで聴いて、そして繰り返し聴いて初めて分かるような感触だった。

 いま、同じ作品について2度目の感想を書いている。正直に言えば、長いライナーノートを読んで、最初は意味がわからなかった。しかしこうして2回書いてみると、あらためてなんとなく分かるような気がする。つまり、オーケストラといって、それは全肯定することなのかもしれない。
 僕はアノードという作品がとても好きなのだけれども、それは一人一人の演奏が何の障害もなく丸ごと肯定されるというか、ルールなしに解放される(というルールが設定されているとは承知の上で)否定的なものを一切外す、全肯定するという印象を受けるからかもしれない。それを聴くのは易しい体験ではないし、苦痛に感じる人さえいるかもしれない。ただ、耳を澄ませば全員の音それぞれが剥き出しになって聞こえる(かもしれない)というところに、単なるカオスでもノイズでもない、何か別のものが聞こえてくるような気がする。
 ただし、それは「社会」とか「共同体」とかではないようにおもう。残念ながら、僕は社会にしろ共同体にしろ、常にそこには排除や選別の論理が働いているとおもうし、そこでは全肯定なんて許されないだろう。だからここではないどこか、というと言い過ぎかもしれないけれど、もちろん、ここではないどこか、は、幾人もの人が幾つも提示しているのだけれど、そうした幾つもの何処かの一つ、なのかもしれない。いま、この日本語の世界で、ここではないどこか、を横文字にしてしまうと、それはあまりにも陳腐でチープになってしまうだろう。しかし、なにかそうしたものが聞き取れそうなところに、正直、驚き以上の何かを感じたような気がする。

 ただ、僕にとってはとりあえず抽象的でしかない大友良英という作曲家が、そんな簡単な人とは到底思えない。仙台まで行くことができず、ストリーミングでみただけのwithout recordは、モニター上とはいえ、たいそう不気味な作品だった。無人の空間でレコードプレイヤーだけが勝手に回転して軋みを立てているさまは、まるで機械の声を聞いているようで、なにか独特の生命をかんじさせた。野生の機械、なんてありえないだろう。ただ、それもまた、ここではないどこか、(の一つ)なのかもしれない。だとすると、そうすると、ここまで書いてきてみて、ひょっとして、どうやら、今なお、まだ、あらたなユートピアを考えることは可能なのかもしれないとおもうのだった。それが何なのかは、まだわからないのだけれど。