年明けしたとはいえない

 新年早々、「far for fur」なるCDを聴く。奇々怪々でユーモラス。
 なかでも宇波拓の作品をじっくり聴いた。そこで感想みたいなものとして、まったく作為とはちがうと思うけれど面白かったのは、非常に構築された時間感覚のようなものを感じたことだろうか。
 というか、勝手な妄想に近いのだが、時間について論じられるほどの専門的な知識は全くないし、今、時間をめぐってはかなり多様で新しい議論が展開されているのは知っているのだけれど、個人的には、時間を感じる、あるいは、いってみれば垂直に時間が降りてくるような感触に、ある種の感動というか、体が震えるときがある。その時間感覚は、たぶん大雑把に言われる西欧的な時間感覚だとはおもうのだけれど、いいかえれば積層された時間というか、ある時点とある時点の距離感が、いっきに押し寄せてきて、取り返しのつかない何かの存在(それは、当然だがもう取り返しがつかないので失われてしまっているのだけれど)をかんじるものだろうか。

 たとえば、ものすごく古い時代に書かれた個人的な書類を実際に手に取ってみたとき、一瞬、さまざまな想像や妄想に頭をかき乱されるように感じる、それに近い。それを書いた人はもう存在していないし、そのどうでもいいような書類を書いた瞬間の感情を共有することも、そのとき頭にあったことも、その周囲の空気さえ、触知することはできない。しかし、その人は現実に存在し、くずれかけた紙に実際にペンや筆で書いたのだ。その人は、どうなったのだろう?そのとき、その周りにいた人たちはどうなったのだろう?みんな死に、会うことも出来ない。会っても、話は通じないかもしれない。ただ、そうした人がその時にいて、それはもうどうしようもないが、その時にいたということだけしか分からない。その親密さと距離感にゾッとする。

 これは、考古学的な関心に近いのかもしれないが、ここでは紙というメディアであることが一つの触媒として重要かもしれない。掘れば出てくるわけではなく、沢山の紙のなかで、たまたま残されたものなのだ。それも、いま、僕の手が触れてしまうことでさらに崩壊している。そのとき、今度は全く逆に、この紙に記された文章が引き起こしたかもしれない何か重大なことへの想像がおりてくる。もちろん、それを完全に知りうることはできない。しかし(その不完全性ゆえに)、その想像もしえないが起きたかもしれず、それが引き起こした様々なことごと、そしてそれが現在をつくりだしているという、いってみれば途方もなさへの想像と、いまその紙に触れている僕の間の物理的な近さとが、ふたたび距離感と親近性として、しかし反転したかたちで突然に降りてくる。その、昔の人への親近感と途絶、その間に横たわる時間の果てしなさと目の前の紙への近さの、二重の親密さと距離感の触知。それを歴史と言うことは容易いが、単に知識で穴埋めできるようなものではなく、なにか取り返しのつかなさ、それを時間と言うべきだろうけれども、その取り返しのつかなさを肉体的に感知するようなものに近い。
 (そして、個人的にはこうした時間感覚は、ネットによるアーカイヴのなかで、ひょっとしてなくなりつつあるのでないかともおもう。そこでは物質的な媒介がなく、すべてがモニター上に展開して、ささいな染みや古びた紙の匂い、埃での手の汚れといった、時間の経過をモノによって身体で感じる契機がなく、たとえば16世紀の王侯貴族の著作をいきなり単語検索でページごとに見れてしまうと、膨大な量をあっさり検索できる手間の省略ぶりに、なにか途方もないフィクションに巻き込まれているような気になったりする−実際、単語検索のために各ページの単語をバイトの学生が一度入力しているのだろうし、それを考えると、意味不明の遺物にいきなり向き合う、といった状況はなくなっているような気がしたりする)

 それで、音楽は時間芸術と言うけれど、実は音楽を聴いていてこういう経験は個人的には非常に少ない。上に書いたのはきわめて単線的な時間軸にそった思考のなかで感じる体験だけれども、音楽は、たえず同じリズムやメロディーをつくることで、ここに書いたような「取り返しのつかなさ」を隠すというか、反復の中に押し込めてしまっているように思う。実はその単線が、遙か遠方まで伸びているという怖ろしいことから目を背けて、目の前の小さな積み重ねに終始する。おなじリズムを繰り返すことで、逆にその単線性を隠蔽しているようにおもわなくもない。実はその線は遙か彼方まで続いていて、その最後に「いま」というものがある。そのおそるべき直線のなかで、たまたま空間上では色々なことが起きて、とりかえしのつかない何かが起きているのだ。そう感じた瞬間、いいしれぬ何かを感じる。これは個人的なものかも知れないが、それは怖ろしい。時間は怖ろしい気がする。もし一瞬前の自分を見ることができたのなら、たぶん、まるでエイリアンのように見えるに違いないとおもうし、そのエイリアンが何かを考えていて、それが今に繋がっているのだとおもうと、なおさらに怖ろしい。 

 tokyo friend parkは、曲としてはそれほど長くないし、一聴して現代音楽作品のような難解さがあるわけではない。けれど、ある狂騒と、それとは無関係に置かれる規則正しい機械音、突然のハープ、そしてまた、先ほどとは違う喧噪めいた騒ぎ。それはコラージュとは違う、規則的なようで不規則なことごとを思わせる。
 これを、構築された時間というのは変なのかもしれないが、どうもそうした取り返しのつかない時間の経過をかんじさせる。ひょっとすると作者としては逆に、直線上の時間を褶曲なり歪曲なりをさせようとしているのかもしれないのだが、一瞬前に起きていたことがスッポリと消え失せてしまう恐怖のようなものを感じた。おそらく勘違いなのかもしれないし、あるいはその構築性を聞き取るべきかもしれないのだが、というより、こんな新年の迎え方をするべきではなかったのかもしれないのだが。