ちょっとした脱線

 誰にいわれたわけでもないけど、先回の投稿はひとの作品に触れつつ、すこし脱線しすぎたような気がしてやや反省する。ただ、時間と歴史感覚については、以前からかなり気になるところ。もう少し妄想を膨らませれば、ややサイエンス・フィクションめくけれど、ネットにおけるアーカイヴィングのなかで、もうすぐ歴史はなくなってしまうのではないかとさえ思ったりする。いや、もうなくなりつつあるのかもしれない。
 たとえばいくつかの文章をみると、レコードマニアやCDマニアの人が、ダウンロードの進み具合に対して、ジャケットをふくめて、モノがなくなってしまうことを慨嘆しているのを見るけれど、それと同じような気分かもしれない。おそらく、慨嘆する方々は、レコードやCDを買ったり触れたりすることで、何らかの過去や時間の手触りを得ているのだと、やや勝手だが、おもう。たとえCDでも、レコードからCD化されれば、やたら小さくなったジャケットを眺めて「こんなのが流行ったり先端だった時代があったのか」と思うときもあるし、復刻盤なんて特にそうだと思う。そこに、個人の記憶が混じるときもあるだろうし、ある意味でひとつの文化として捉えているのかもと思う。
 それが、全部パソコンのモニターで、イメージもないまま、曲名だけがズラリと並んで、どれも同じく聞こえる。アナログっぽい感触とかも、ダウンロードではなかなか聞き取れないようだし、それはまさにアーカイブではある。そうしたとき、歴史や時間感覚は、もはやいちどモニターを通してから獲得されるのではないかという、妄想。テクノロジーを介した過去の感触は、どうなるのだろうか。
 もちろん、いいかえれば、あらゆる作品や映像や音が、どれもすべて「現在」としてとりだされるし、見ることのできなかったものも沢山触れることができる。なにより、誰でもアクセスできるようになってゆく。ただ、そこでは、モノが積まれて、それが層をなして歴史を成すというような感触は、ほとんどないのではないか。あらためて、図書館は火に包まれている、としたフーコーを、別の角度から読み直すべきなのかもしれない。そこにはまた、情報の洪水という面もあるし、その点ではいまや過去は、すぐ手を伸ばせば届く現在の洪水として、目の前に溢れかえっている。それをあらためて過去だの歴史だの時間だのと、いちいち指摘して回るのは、文字通りアナクロニスムになるのかもしれない。
 いや、おそらくこうした問題に頭を悩ますのは、後ろ向きという意味でもアナクロニスムなのかもしれない。いま、目の前に立ちはだかるのは環境であり、そこでは新たな、すぐそこにある近未来の危機があるだろう。問題は、一秒、一分先の未来の行動にかかっていて、過去にかかずらわっている時ではないのかもしれない。いま陸地である場所は水没し、都市は姿を消し、気象が変動して、熱帯と亜熱帯の夏が来ているかもしれない。あたりには人工的に植林された緑が生い茂っているかもしれない。そうしてテクノロジーと自然がまだら状に入り混じったなかで、過去はただモニターで鑑賞する画像と音の組み合わせになって、いつまでも続く現在と未来の闘争から切り離されて、遠い虚構のように見出されるだけなのかもしれない。どこからでも、その場次第で、クリックすればあっけなく見出される時。
 そうすれば、そのなかで歴史も時間も、八つ裂きにされ雲散霧消して、その霧の向こうで、ありえたかもしれないが破壊的なユートピアとして、誰にも省みられぬまま、静かに沈殿していることになるのかもしれない。
 そうした、このどれもがあまりに紋切り型な、未来の過去についてのちょっとした脱線。